Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

Sache とは - コトバンク

世界大百科事典内のSacheの言及
【こと(事)】より
…〈こと〉は〈もの〉と対立する優れて日本的な存在概念である。英語のevent,matter,ドイツ語のSache,Sachverhalt,フランス語のchose,faitなどを時によっては〈事〉と訳す場合もあるが,元来の発想はそれらとは異質である。グラーツ学派のマイノングが,高次対象論において学術的概念として導入した〈objektiv〉をはじめ,後期新カント学派,初期現象学派,論理分析学派などの学術的概念のなかには〈こと〉に類するものがないわけではないが,それらとて〈こと〉とはかなりのへだたりがある。…
※「Sache」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

http://kotobank.jp/word/Sache

中井正一のメディア論−深田康算,久野収,新村猛,武谷三男,三木清,戸坂潤,西田幾多郎,田辺元らとの関係における中井の弁証法

著者紹介  
後藤嘉宏(ごとう・よしひろ)
筑波大学大学院図書館情報メディア研究科(情報メディア社会分野)助教
学群(学部)担当科目;メディア論、社会学、知識資源論
博士前期課程(修士課程)担当科目;専門情報・資料(社会)
鎌倉市に生まれ、育ち、在住する傍ら、つくば市でも住み、働く
慶應義塾大学文学部文学科仏文専攻卒業
東京大学大学院社会学研究科社会学専攻(B新聞学)修士課程修了(社会学修士
東京大学大学院博士課程単位取得満期退学
九州大学より博士(比較社会文化)の学位を得る
日本社会学会、日本マス・コミュニケーション学会、思想の科学研究会、
メディア史研究会、日本社会情報学会、情報メディア学会、日本出版学会、各会員

日本の生んだ数少ない独創的思想家の一人といわれる中井正一(1900-52)のメディア論を、彼の京大時代の恩師深田康算の美学からの影響、及び中井の在学・在職当時京大で影響力のあった西田幾多郎田辺元弁証法理解への批判、あるいは三木清などの先輩や、新村猛、和田洋一久野収武谷三男などの友人とのかかわりから解き明かす。本書は、九州大学より博士の学位を受けた論文「中井正一におけるメディウムとミッテルに関する一考察――中井の2つの媒介概念と、資料、官庁資料、本、図書館」を大幅に増補・改稿したものであり、中井研究において一定の意義あるものであると同時に、日本の現代のメディア状況を照らすものとなるべく努めた。

http://www.geocities.jp/yoshiclassic/aboutmybook


多目的ホールの楽屋裏−Yoshi`s website(2)
http://www.geocities.jp/yoshiclassic/

ル・コルビュジエのブルータリスム研究(21520142) - KAKEN

2009年度〜2012年度
伊集院 敬行
研究者番号:90304245
島根大学・法文学部・准教授

本年度は、ル・コルビュジエのブルータリスムのシュルレアリスム性を説明する理論として、ル・コルビュジエの機械美学を映画理論と接合した中井正一(1900-1952)の美学について考察した。これまで全く論じられていないが、中井は映画をハイデガーに即して論じるために精神分析理論を応用している。そこでは映画は精神分析が行われる場、すなわち無意識のエスが暴露される場として理解され、これが現存在の本来的在り方と重ね合わされた。一方、中井はル・コルビュジエの機能美学を存在論的に論じたり、映画と結びつけて論じたりしている。

23年度は、主にこの点を強調したけ研究成果を、日本映像学会の第37回大会(於:北海道大学)、意匠学会の大会(於:国立民族博物館)で口頭発表した。前者では主に中井の映像論の精神分析的側面について、後者では中井のそのような映像論とル・コルビュジエの機械美学との関連についての考察を発表した。また、現在、『映像学』に研究成果をまとめた論文を投稿し、審査を受けている。

さて、中井が「機械美の構造」で映画とル・コルビュジエの機能主義美学を結びつけていることから、このような中井の映画の精神分析的理解は、ル・コルビュジエの機能主義美学にも当てはまると考えられる。これを踏まえるなら、ル・コルビュジエの後期スタイルであるブルータリスムに見られるシュルレアリスム性について、映像論的、精神分析的、存在論的な考察が可能になる。そして、これにより、単純な機能主義的からはみ出るものとしてモダンデザインの再定義が可能になるだろう。

http://kaken.nii.ac.jp/d/p/21520142

「モダン・フォトグラフィ」受容の重層性──『フォトタイムス』誌に見る言説空間と写真実践── 高橋千晶

 こうした背景のもと、大正13[1924]年にオリエンタル写真工業宣伝部内フォトタイムス社は、月刊写真雑誌『フォトタイムス』を創刊する【図1】。編集主幹の木村専一(1900-1938)は、昭和5[1930]年に「新興写真研究会」を設立したことから、「新興写真」の名付け親と目されるが1、『フォトタイムス』編集においては、ラースロー・モホイ=ナジ(Laszlo Moholy-Nagy:1895-1946)や、マン・レイ(Man Ray:1890-1976)など新進気鋭の欧米作家の動向を、翻訳論文や写真図版を通して多数紹介することによって新機軸を打ち出した。こうした事例から、『フォトタイムス』は、『アサヒカメラ』(朝日新聞社、昭和2[1926]年創刊)、『光画』(聚楽社、昭和8[1933]年創刊)とともに、新興写真運動を語る上で不可欠の写真雑誌の一つと見なされている。たとえば飯沢耕太郎は、「新興写真研究会」と『フォトタイムス』における木村専一の活動が「自分たちの方法を模索していた日本の写真家たちに、明確な指針を与えるものであった」と高く評価し、「『新興写真』の時代のはじまりを告げるもの」と本誌を位置づける2。同様に、西村智弘も「新興写真の誕生」を語る際に木村専一と『フォトタイムス』に言及し、「新興写真運動が生まれる上で木村とこの写真雑誌が果たした役割は大きかった」と指摘する3。
 しかしながら、1930年前後の『フォトタイムス』誌面を見ると、必ずしも本誌が「新興写真」という概念に首尾良く折り込まれるわけではないことに気づく。むしろ、口絵掲載の写真作品や投稿記事の中には、新興写真が繰り返し否定してきた「芸術写真」を彷彿させる事例も散見され、『フォトタイムス』という場が、相反する要素を貪欲に吸収・消化した複雑なメディア空間であったことが浮かび上がってくる。このことは、1930年代に日本写真界を席巻した「新興写真」と呼び慣わされる思潮が、必ずしも明確に定義できるものではなく、複数の方向へと分岐する流動的な動きであったことと無縁ではない。
 問題はそれだけではない。『フォトタイムス』創刊の時代、つまり大正末から昭和初期の写真界は、明治から続く老舗の写真雑誌『写真月報』や『写真新報』に加えて、福原信三の『写真芸術』(写真芸術社、大正10[1921]年創刊)、高桑勝雄主筆の『カメラ』(アルス、大正10[1921]年創刊)、淵上白陽主幹の『白陽』(白陽社、大正11[1922]年創刊)、中島謙吉主幹の『芸術写真研究』(アルス、大正11[1922]年創刊)など、主としてアマチュア写真家を読者層とした写真専門誌がしのぎを削った時代であった。大正後期の写真界は、「芸術写真」を標語とした写真雑誌創刊ブームの渦中にあったと言える。このブームにやや遅れて誕生した『フォトタイムス』は、創刊当初からアマチュア写真家のみならず、「プロ」の写真家も読者層に取り入れることを明確に意識し、従来の写真雑誌と異なる路線の開拓を目指していた4。本誌が先行する競合誌との差異化をはかるために、「モダン・フォトグラフィ」というモードを戦略的に取り入れたと考えることはそれほど難しくはないだろう。
 以上を踏まえて、本稿では、1930年代前後の『フォトタイムス』誌掲載のテクストと写真イメージに注目することによって、「モダン・フォトグラフィ」受容の重層性を明らかにし、モードとしての「モダン・フォトグラフィ」――国際的であること/同時代的であること/社会性があること(プロフェッショナルであること)――の戦略的利用の様相を浮き彫りにすることを課題とする。

第2章第3節 板垣鷹穗の「新しい視覚」
 新興写真においては、運動を牽引した論者が必ずしも写真家だけではなく、板垣鷹穂や村山知義など、同時代の批評家や芸術家が中核に位置していたことも、それまでとは異なる側面であった26。板垣は自ら写真を撮影・発表したわけではないが、その理論を実践するために堀野正雄や渡邊義雄を協力者として、いわゆる「グラフ・モンタージュ」を共同制作する。「グラフ・モンタージュ」とは、主に雑誌誌面での写真の発表形式の一つであり、あるテーマを複数の写真の組合せによって、視覚的に報告する働きを持つ。『フォトタイムス』では、こうした写真の発表の仕方を「グラフ」と呼んで他の記事と区別しているが【資料参照】、明確な線引きはなされていないようである。いずれにしても、堀野正雄が連載した「新しきカメラへの途」は、後の「グラフ・モンタージュ」の萌芽とみなせる取り組みであり、板垣の指導によって堀野が自らの路線を開拓していく様がはっきりと読みとれる。
 ここでは、板垣が自らの機械美学を写真によって実験した著作、『優秀船の芸術社会学的分析』(天人社、1930年)刊行に先立って、『フォトタイムス』に掲載した「機械的建造物の乾板撮影」と、板垣の指導によって堀野が撮影した瓦斯タンクのシリーズを取り上げて、板垣の「新しい視覚」の内実を探ることにする。

26  村山知義は昭和2[1926]年から『アサヒカメラ』誌上でマン・レイやエル・リシツキーの作例に言及しながらフォトグラムやフォトモンタージュを「写真の新しい機能」として紹介している。新興美術の立役者であった村山の関心は、美術作品と写真の共鳴にのみ向けられたわけではなく、正確な再現性に写真の使命があることを指摘し、新興写真が掲げた理念を共有していた。「写真は先づ第一に迅速正確な報導者であり、再現者でなければならない。此の使命と可能性を忘れて古い芸術手段である所の絵画の真似をしやうとしたのが、所謂「芸術写真」であって、これは誤った道である事は、最早言ふ迄も無い。」『アサヒカメラ』昭和5[1930]年4月号、403頁。

http://www.kyoto-seika.ac.jp/researchlab/wp/wp-content/uploads/kiyo/pdf-data/no38/takahashi_chiaki.pdf


ドイツ工作連盟主催「Film und Foto」展(一九二九年)と「独逸国際移動写真展」(一九三一年) : 新しい「展示システム」をめぐって(第六十二回美学会全国大会発表要旨) 江口みなみ
http://ci.nii.ac.jp/naid/110009480057


◇ 独逸国際移動写真展 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E9%80%B8%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%A7%BB%E5%8B%95%E5%86%99%E7%9C%9F%E5%B1%95

日本の芸術写真──写真史における位置をめぐって 特別講演録(2011年4月16日)

では、写真における表現という観点で写真史をみた場合、ピクトリアリズムの時代においては、残念ながら表現を基準にした写真の歴史、つまり「通史」は書かれてきておりません。それがはっきり書かれるのは、1920年代の終わりから1930年代にかけてです。近代的写真表現というものを追求していくなかで、写真の歴史というものが書かれていくのです。図録にも書かせていただきましたが、『写真眼 Foto Auge』(1929年)という写真集のなかにフランツ・ローの「メカニズムと表現」という文章があります。そのなかで写真の歴史を初期の時代、頽廃の時代、現在と三つの時代に分け、初期の時代はよかった、次のいわゆる芸術写真の時代はよくなかった、そしてそれを否定することによって今後の新しい表現が生み出されていくと書かれています。この歴史観によって、その後さまざまな写真の歴史が書かれてきていますが、その基本的な枠組みはずっと崩れてきておりません。たとえば、ボーモント・ニューホールというアメリカの写真の歴史家が書いた『写真の歴史──1839年から現在までThe History of Photography from 1839 to the Present Day』(初版1949年)でも基本的にその枠組みは踏襲されておりますし、ほぼ同時期に写真の歴史について興味を持ち書き始めたヘルムート・ゲルンシャイムの『世界の写真史A Concise History of Photography』(1965年)にも共通していると思います。日本でも、たとえば田中雅夫さん(『写真130年史』1970年)とか、伊奈信男さん(『写真・昭和五十年史』1978年)なども、やはりその基本的な枠組みは踏襲されております。

https://syabi.com/contents/images/info/journal/kiyou_11/03.pdf

活動報告 - 東京都写真美術館紀要 - 東京都写真美術館

東京都写真美術館紀要 No.13

[1]表紙〜目次 [ pdf_212Kb ]
[2]図版資料 P5〜「シンポジウム『日本写真の1968』全記録」、P8〜「ロマンチシズムからヒューマニズムへ―大束元の再評価をめぐって」、P10〜「視点としてのユートピア:ガイ・ティリムのドキュメンタリー写真『Jo’burg』シリーズに歴史の地層を読む」[ pdf_2.74Mb ]
[3]P13〜P51「シンポジウム『日本写真の1968』全記録」倉石信乃、土屋誠一、冨山由紀子、小原真史、金子隆一 [ pdf_1.70Mb ]
[4]P53〜P59「新進作家から見るデジタル時代における身体とその思考〜表現の時代背景から〜」山峰潤也 [ pdf_376kb ]
[5]P61〜P67「展覧会『シュタイデルとの本の作り方』について」伊藤貴弘 [ pdf_468kb ]
[6]P69〜P77「ロマンチシズムからヒューマニズムへ――大束元の再評価をめぐって」山田裕理 [ pdf_736kb ]
[7]P79〜P85「東京都写真美術館のワークショップ 暗室での現像体験の意義」徳本宏子 [ pdf_464kb ]
[8]P87〜P101「視点としてのユートピア:ガイ・ティリムのドキュメンタリー写真『Jo’burg』シリーズに歴史の地層を読む」栗栖美樹 [ pdf_1.01Mb ]
[9]P103〜P117 “Utopia as a perspective: Reading historical strata in Guy Tillim’s documentary photo essay Jo’burg series” Miki Kurisu [ pdf_712kb ]

http://syabi.com/contents/info/kiyou_13.html
とりわけガイ・ティリムについての論文が気になります。

ブルームズベリー・グループ - Wikipedia

ブルームズベリー・グループは、1905年から第二次世界大戦期まで存在し続けたイギリスの芸術家や学者からなる組織である。
もともとは、姉妹であるヴァネッサ・ベルとヴァージニア・ウルフを含む4人のケンブリッジ大学生によって、結成された非公式な会合がきっかけであり、メンバーたちの卒業後もこの集いは存続した。
1910年のドレッドノートを舞台とした「偽エチオピア皇帝事件」にはメンバーの多くが参加したが非国民という悪名を負う羽目となり、また彼らのストレートな平和主義・左派自由主義の信念は戦時中において非難を引き起こすことがあった。第一次世界大戦後その組織統一は弱まり、意見や信念もばらばらなものとなってしまった。
ブルームズベリー・グループの意見や信念は第二次世界大戦を通して話題を呼び、広く非難されたが、次第に主流となりそれは終戦まで続いた。ブルームズベリー・グループのメンバーであった経済学者ジョン・メイナード・ケインズの著作は経済学の主要な理論となり、作家ヴァージニア・ウルフの作品は広く読まれ、そのフェミニズムの思想は時代を超えて影響を及ぼしている。他には伝記作家リットン・ストレイチー、画家のロジャー・フライ、作家のデイヴィッド・ガーネット、E・M・フォースターがいる。また早くから同性愛に理解を示していた。イギリスの哲学者で熱心な反戦活動家であったバートランド・ラッセルも、このグループの一員と見なされることがある。
ブルームズベリー・グループは組織一丸となっての活動成果よりも個々人の芸術的な活動成果が主に評価されているが、20世紀の終わりが見えた頃から、組織内での複雑な人間関係が、学問的注目を集め研究対象となっている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97

スーザン・ソンタグの遺言/『良心の領界』スーザン・ソンタグ - 古本屋の覚え書き

彼女はこの序文を書いた10ヶ月後に亡くなった──

 序

 若い読者へのアドバイス……
(これは、ずっと自分自身に言いきかせているアドバイスでもある)

 人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。注意力(アテンション)の形成は教育の、また文化そのもののまごうかたなきあらわれです。人はつねに成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめること、挑戦を受けることに一生懸命になってください。
 検閲を警戒すること。しかし忘れないこと──社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、【自己】検閲です。
 本をたくさん読んでください。本には何か大きなもの、歓喜を呼び起こすもの、あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。その期待を持続すること。二度読む価値のない本は、読む価値はありません(ちなみに、これは映画についても言えることです)。
 言語のスラム街に沈み込まないよう気をつけること。
 言葉が指し示す具体的な、生きられた現実を想像するよう努力してください。たとえば、「戦争」というような言葉。
 自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または、少なくとももてる時間のうち半分は、考えないこと。
 動き回ってください。旅をすること。しばらくのあいだ、よその国に住むこと。けっして旅することをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋めあわせをしてくれます。たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます。
 この社会では商業が支配的な活動に、金儲けが支配的な基準になっています。商業に対抗する、あるいは商業を意に介さない思想と実践的な行動のための場所を維持するようにしてください。みずから欲するなら、私たちひとりひとりは、小さなかたちではあれ、この社会の浅薄で心が欠如したものごとに対して拮抗する力になることができます。
 暴力を嫌悪すること。国家の虚飾と自己愛を嫌悪すること。
 少なくとも一日一回は、もし自分が、旅券を【もたず】、冷蔵庫と電話のある住居を【もたない】でこの地球上に生き、飛行機に一度も乗ったことの【ない】、膨大で圧倒的な数の人々の一員だったら、と想像してみてください。
 自国の政府のあらゆる主張にきわめて懐疑的であるべきです。ほかの諸国の政府に対しても、同じように懐疑的であること。
 恐れないことは難しいことです。ならば、いまよりは恐れを軽減すること。
 自分の感情を押し殺すためでないかぎりは、おおいに笑うのは良いことです。
 他者に庇護されたり、見下されたりする、そういう関係を許してはなりません──女性の場合は、いまも今後も一生をつうじてそういうことがあり得ます。屈辱をはねのけること。卑劣な男は叱りつけてやりなさい。
 傾注すること。注意を向ける、それがすべての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと。そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、みずからの生を狭めてはなりません。
 傾注は生命力です。それはあなたと他者をつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしてください。
 良心の領界を守ってください……。

 2004年2月

  スーザン・ソンタグ

【『良心の領界』スーザン・ソンタグ/木幡和枝〈こばた・かずえ〉訳(NTT出版、2004年)】

http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20100428/p5