Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

「福島・喜多方事件」研究・顕彰文献目録(1981〜2002) - 大内研究室

http://www6.ocn.ne.jp/~minken/bunken1981-2002.htm


◎ 大内研究室へようこそ 福島県自由民権運動研究
http://www6.ocn.ne.jp/~minken/index.htm


◇ 発祥の地コレクション/自由民権発祥地

JR磐越西線喜多方駅から北東に1.5km。
喜多方郵便局の東に 国道459号に面して出雲神社がある。参道を入って社殿の右裏に「自由民権発祥地」と書かれた白い石碑が建っている。
喜多方市は 1882(明治15)年に,自由民権運動の中で起きた農民たちが 圧政に反抗した「喜多方事件」が起きた場所。喜多方事件は,関連する事件を含めて「福島事件」とも呼ばれる。
明治15年 福島県令となった三島通庸は 着任するとすぐに,“三方道路”(若松から新潟・山形・栃木に通じる県道)の工事を開始した。これは 工事予算がないまま すべて住民の負担によって道路を完成させようとする計画で,人夫または人夫賃を出させるなど 農民に大きな負担をかけた。さらに工事に従事せず抵抗する農民の財産を差し押さえて競売に出すなど 強引な手段をとった。
これに対して,県議会議長であった自由党河野広中は 県会無視の県令に対して,“議案毎号否決の決議”(すべての議案を否決するという決議)を行い,自由党と県令は鋭く対立。自由党会津部は農民4000名の賛同を得て“権利恢復同盟”を結成し 裁判所に訴えたが,逆に誣告罪に問われて指導者が逮捕される事態になった。
これがきっかけで,2000名近い農民が 喜多方警察署に押しかけ,これに対してサーベルを抜いた警察官が襲いかかり,44名が逮捕されたうえに 多くの負傷者を出した。翌日には同盟の本部が襲われて多くの指導者が逮捕されると同時に河野広中も逮捕された。その結果 農民323名が罰金刑に,指導者層57名は 国事犯として東京で裁判にかけられた。
この事件をきっかけに 自由民権運動は全国的に激化し,1884(明治17)年に 茨城県の「加波山事件」などに発展した。

出雲神社から500m程西の“喜多方市立厚生会館”に“喜多方事件百周年記念顕彰碑”があり,碑文には次のように書かれている。

http://hamadayori.com/hass-col/culture/JiyuminkenKitakata.html


自由民権運動 - Wikipedia

自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)とは、明治時代の日本において行われた政治運動・社会運動。
従来の通説では1874年(明治7年)の民撰議院設立建白書の提出を契機に始まったとされる。それ以降薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げ、1890年(明治23年)の帝国議会開設頃まで続いた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E6%A8%A9%E9%81%8B%E5%8B%95


◇ うつくしま電子事典<苅宿仲衛>

苅宿仲衛は、1854年、苅宿村(現在の浪江町苅宿)の代々神官を務める家柄に生まれました。宮城師範学校に学び卒業するとしばらく小学校の先生を指導する先生として活躍しました。1880年、教育の世界から政治の世界に入り、民主主義や自由を求める自由民権運動に加わり全国各地に足を伸ばして活動しました。この運動は、当時の政府に反対する運動でしたから、しばしば弾圧を受け、福島事件、加波事件、大阪事件などで警察に逮捕されましたが、そのいずれの場合も無罪放免になっています。いつの場合も、放免されるとすぐに牢獄に入っている同志の家族を救うために熱心に活動しました。1886年に県会議員となり、1890年の第1回総選挙に立候補(落選)した時期を除いて、1898年まで一貫して自由党の県会議員として自由と人権のために闘いました。

http://www.gimu.fks.ed.jp/shidou/jiten/cgi-bin/jnbt.cgi?id=view&cd1=%CF%B2%B9%BE%C4%AE&cd2=%B4%A3%BD%C9%C3%E7%B1%D2


◇ 三春と自由民権運動|三春町歴史民俗資料館 - 三春町ホームページ

明治時代初めの政府は、鹿児島県・山口県など、明治維新をなしとげた地域の人々を中心とする専制政府でした。明治政府は、社会のしくみを変える改革を次々に進めましたが、多くの人々の生活は良くなりませんでした。また、当時の日本には国会・憲法がなかったため、国民の自由を守り、権利を主張する場もありませんでした。このような時代の中で、自由民権運動は、人々が国政に参加し、自由と権利を獲得することを目的としてはじまり、全国的に広がったのです。

三春町出身の河野広中(こうのひろなか)は、多くの同志たちと民権運動に参加し、三春に政治結社「三師社」、青年活動家を養成する学塾「正道館」を創設し、数多くの運動家を育てました。また、関東・東北地方では例のない政治雑誌「三陽雑誌」を発刊しました。このような活動により、三春は東北地方最大の自由民権運動の中心地となったのです。河野らの活動は、福島県内にとどまらず、わが国最初の政党「自由党」の結成には代表を送り、党の活動にも積極的に関わりました。

このような動きに対し、明治15(1882)年の秋に起こった喜多方事件を好機として、明治政府の力を背景とした福島県三島通庸は大弾圧を強行し、河野広中・田母野秀顕ら、三春町出身者10名を含む、58名の運動家を逮捕しました。この事件は「福島事件」と呼ばれ、逮捕された人々は、国家に対する罪を犯したとして裁判にかけられました。そして、河野と田母野ら10名が有罪とされたのです。

福島事件以後、自由民権運動は全国的に激化しました。福島事件により弾圧を受けた県内民権運動家は、明治17年、栃木県令に就任していた三島の暗殺を志しましたが、最終的に茨城県加波山で挙兵決起することとしました。「加波山事件」と呼ばれるこの運動に参加したのはわずか16名でしたが、その中には河野広中の甥広体、琴田岩松ら、5名の三春町出身者がいたのです。しかし、この挙兵は失敗し、参加した16名を含む130名もの人々が逮捕されました。そして、三春出身の山口守太郎が獄死し、琴田を含む7名が死刑、河野広体ら5名が無期徒刑となるなど、多数の人が処罰されたのです。

このような運動の高まりの結果、明治政府も国会の開設、憲法の発布を検討するようになりました。明治22年大日本帝国憲法が発布、翌年には第1回の衆議院選挙が行われ、帝国議会が成立したのです。

福島・加波山事件を通じ、多くの県内自由民権家が逮捕・処罰されました。その中で三春出身者が多数にのぼったことからも、三春町が自由民権運動に積極的に関わったとして知られるのです。

http://www.town.miharu.fukushima.jp/site/rekishi/minken.html


◇ 21.自由民権発祥の地を歩く(三春町) / ふくしまの歴史と文化の回廊 - 福島県ホームページ

〜福島の自由民権運動河野広中


  三春町は、自由民権運動の先駆者河野広中をはじめ、多くの運動家を輩出した町である。
  明治維新により成立した政府は、維新を成し遂げた西国諸藩出身者を中心とする藩閥政府であり、国民の自由を守る憲法はもちろんその意志を代弁する国会も置かない不十分なものであった。自由民権運動は、こうした国家のあり方を痛烈に批判し、国会の開設・憲法の発布を目的とし、全国的に展開した運動である。
  三春町における自由民権運動は、明治11年(1878)に設立された政治結社「 三師社 」、同14年(1881)に自由民権思想の普及を目指して設立された「 正道館 」のように、若い運動家を育成し、活動の基盤を固めるものであった。ここで育成された運動家は演説会や直接的活動を通じ県内はもとより、県外においても活発な活動を展開した。
  こうした運動は、時の政府、そして福島県の弾圧を受け、明治15年(1882)、河野広中らが逮捕・有罪にされた疑獄事件である 「 福島事件 」、同17年(1884)河野広躰・琴田岩松らが中心となった激化事件 「 加波山事件 」 へと展開していった。


三春町役場
〒963-7796 田村郡三春町字大町1-2
電話:0247-62-2111(代)

http://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11055a/bunkakairou54.html

メサイアコンプレックス - Wikipedia

メサイアコンプレックス(英語: Messiah complex)とは、個人が、救済者になることを運命づけられているという信念を抱く心の状態を示す言葉である。キリストコンプレックスもしくは救世主コンプレックスとも呼ばれる。メサイアコンプレックスという言葉は精神障害の診断と統計マニュアルには記されていないが、この障害の症状は誇大妄想に苦しむ個人に見られるものと色濃く類似している。この種の妄想的信念は、双極性障害統合失調症をわずらう患者に最も多く報告されている。この障害についてはほとんど知られておらず、診断するに足る十分な意義がないものの、人口の10%程度がいずれかの形で類似した信念を有していると考えられている[1]。例としてジム・ジョーンズ、デイビッド・コレシュ、インリ・キリストなどが挙げられる[2]。

メサイアというのは、一般的な日本語ではメシア(救世主)と言われるもののことである。この心理が形成されるのは自分は不幸であるという感情を抑圧していたため、その反動として自分は幸せであるという強迫的な思いこみが発生するとされる。さらにこの状況が深まると、自分自身が人を助ける事で自分は幸せだと思い込もうとする。
なぜこのような論理になるかと言えば、幸せな人は不幸な人を助けて当然という思い込みを自らに課す事で「自分は幸せである、なぜなら人を助けるような立場にいるから」という理論を構築できるためである。本来は人を援助するその源としてまず自らが充足した状況になることが必要となるのだが、この考えは原因と結果を逆転させており無論無理がある。
結局のところそういった動機による行動は自己満足であり、相手に対して必ずしも良い印象を与えない。また、相手がその援助に対し色々と言うと不機嫌になる事もある。しかも、その結果が必ずしも思い通りにならなかった場合、異常にそれにこだわったり逆に簡単に諦めてしまう事も特徴的である。このようなことは宗教などの勧誘にも見られる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

July 17, 1989: Death By Gun | A History of Violence: Gun Control in the Pages of TIME | TIME.com

July 17, 1989: Death By Gun
By Nick Carbone @nickcarboneJan. 15, 201312


There was no single shooting that inspired this special portfolio. Instead, the sheer number and variety of homicides included within were meant to be the shocking part. From May 1 to May 7, 1989, TIME tracked every fatal shooting in the United States, presenting all 464 in an exhaustive list — along with photos of the victims and their stories, in an attempt to humanize the tragedies. The victims were killed by their own gun or by someone else’s, by accident or on purpose, and they came from all over: that week, only eight states reported zero gun deaths. California had the highest number, with 68. The cover story estimated that by the end of that year, the total number of gun fatalities in the U.S. would reach 30,000 — a statistic that remained nearly unchanged in 2011.

http://newsfeed.time.com/2013/01/16/a-history-of-violence-gun-control-in-the-pages-of-time/slide/july-1989-death-by-gun/

akumanoshirushi

http://www.akumanoshirushi.com/

危口の思いついた何かをメンバーたちが方法論も知らず手さぐりで実現していった結果、 演劇・パフォーマンス・建築・美術など多様な要素をもつ異色の集まりとして注目される。
作風は基本的に、演劇的な要素の強い舞台作品と、祝祭的なパフォーマンス作品という二つの系統。


団体名は、主宰・危口統之の敬愛する英国のロックバンドBLACK SABBATHの楽曲 「SYMPTOM OF THE UNIVERSE」に付けられた邦題、「悪魔のしるし」に由来。2008年結成。

http://www.akumanoshirushi.com/about.htm

A Guide to Keiji Haino - Red Bull Music Academy Japan

オーストラリア人音楽ライターが解説する、灰野敬二を知るための15枚のアルバム

http://www.redbullmusicacademy.jp/jp/magazine/a-guide-to-keiji-haino


菊地成孔:Jazz In Japan - Red Bull Music Academy Japan

日本におけるユース・カルチャーとしてのジャズとフュージョン・リヴァイヴァル

http://www.redbullmusicacademy.jp/jp/magazine/jazz-in-japan

Rosalind Krauss on Tacita Dean’s FILM - YouTube

2014/10/30 に公開
British artist Tacita Dean created a filmwork for Tate Modern's Turbine Hall. FILM is an experimental response to the architecture of the space and a portrait of the medium itself.


Professor Rosalind E. Krauss discusses Tacita Dean’s work FILM 2011, in relation to her ongoing championing of medium specificity.


Rosalind E Krauss, editor and cofounder of October magazine, is University Professor at Columbia University. She is the author of The Originality of the Avant-Garde and Other Modernist Myths, The Optical Unconscious, Bachelors, and Perpetual Inventory. Her latest book, Under Blue Cup (2011), explores the relation of aesthetic mediums to memory.


This event is related to the 2011 exhibition The Unilever Series: Tacita Dean: FILM


http://www2.tate.org.uk/tacitadean/

http://youtu.be/eXi4pDicSu8

現代美術家リチャード・プリンス、制作拠点を初公開 - WSJ

 米現代美術家リチャード・プリンスさんは20年近く前、ニューヨークから北へ200マイル(約320キロ)離れたところにある昔の農家に引っ越し、そこを制作拠点とした。誰も訪ねてこないというのがそこを選んだ理由だった。プリンスさんは広い敷地にある建物を再利用したり、新たに何かを建てたりしながら、縦横無尽に感性の赴くまま作品を制作していった。赤レンガでできた昔の銀行は珍しい書籍を集めた図書館に変貌し、ハンティングに使われていた小屋はビニール盤レコードで覆われた作品になった。プリンスさんは今、そうした作品群を一般公開する準備を進めている。

http://jp.wsj.com/articles/SB11920364258490754648804580313660356218790

Please Pay Attention Please | artlovesmoney

Bruce Nauman (1941–) from Please Pay Attention Please: Bruce Nauman’s Words:


What I was doing, and what I am going to do and what most of us probably do, is to use the tension between what you tell and what you don’t tell as part of the work. What is given and what is withheld become the work.

https://artlovesmoney.wordpress.com/2009/01/12/please-pay-attention-please/