Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

2004年12月2日のメモから

浅田 もちろんそれはアメリカだけの話ではない。
バラード そう、ケネディ暗殺は六〇年代以後の世界を
生み出す触媒だったとさえ言えるかもしれない。TV戦
争としてのヴェトナム、六八年、ポップカルチャー……。
すべてはもはやメディア・ランドスケープの中にある。
そこにはエモーションはなく、センセーションがすべて
だ。そして、それは速やかに飽和に向かう。
浅田 差異の飽和点における無差異=無関心(インディ
ファレンス)に。
バラード それは最近のことのように見えるが、実は六
〇年代に始まっていたことだと思うね。
(中公文庫『「歴史の終わり」を超えて』浅田彰 より
         第六章 J・G・バラードとの対話 
          ※初出『03』一九九一年五月号)



「いまここ」を準備したのは「かつてそこ」であり、
「やがてどこか」を準備するのは「いまここ」である
ことに、疑いの余地はありません。


たとえば、コップに一杯の水を汲むとします。
それを等しい大きさの次のコップに注ぎます。
それを等しい大きさの次の次のコップに注ぎます。
それを等しい大きさの次の次の……コップに注ぎます。
この無限の連鎖が時代──つまりは歴史
を作り出している、と考えてみます。
しかし、よほどうまく「水のリレー」を行わないと、
水は少しずつ失われていくでしょう。


それを防ぐには、
どこかで水を汲み足し、
より容積の大きなコップを
手に入れなくてはなりません。


では誰が?
それを?


1.「かつてそこ」の人
2.「いまここ」の人
3.「やがてどこか」の人


「いまここ」の人々は、
とてつもなく鈍感なのかもしれない。
そんな気がしてなりません。
(もちろん自戒も含めて)