Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui http://www.nobuhiro-fukui.com/

後期デリダの倫理についての覚書ほどのラフ

(マサミさんの日記[mixi]より引用 ※タイトル含む ※3つの論点のうちの一部)
1:善悪に頓着しない脱構築
ところで、脱構築が既存の制度を破壊することから、しばしば否定の思想だと言われることに対して、デリダ自身、「脱構築は肯定の思想だ」と応じている。そして多くの注釈者たちにとっては、それを追認することが、デリダへの応答=責任の「作法」にまでなっているように見える。
確かに、脱構築が首尾よく起れば、それに伴って、当の社会的構築体を支えるドグマなどの根拠は解体される。
だから、脱構築された側の制度・イデオロギー・教義・幻想などに準じていた者にとっては、否定的な思考にしか見えない可能性もある(実際、かつて美学者の新田博衛さんなども、脱構築的研究者に対して「壊ち屋」と非難していた)。他方、従来の社会システムの根拠なき制約からの解放という効果が、そこに起る。そこからは肯定の思想に見える。

しかし、だから脱構築が正義だ、ということにはならない。
ある社会的制度の脱構築が「善」だと見なされるには、その制度が当事者にとって悪しきものとして存在していた場合に限る。またある社会システムが脱構築されたことで、そのことによって、より具合の悪いシステムが生まれたり機能したりする可能性だってある。
脱構築が起ったとしても、それはアプリオリに善であったり悪であったりはしえない。それが正義と捉えられ、あるいはそこに善悪の基準を与えたときには、すでに意志とその利害関心や無意識の欲動などの、特定の傾向が、脱構築されざる別のシステムがつねにすでに働いていざるをえない。脱構築する、と動詞的に捉えられたときにもまた、同様である。