単位としての「1」は、許容する「1」。
単数性としての「1」は、拒絶する「1」。
記憶の外部化は当然のなりゆきだとして、
経験の外部化は可能だろうか?
また、記憶の外部化が究極的にすすんだとしても、
身体性という問題は相変わらずつきまとうだろう。
(例えば脳髄に直接ジャックインできたとしても
神経回路を流れる電流の流量には許容量があるはず。
すなわち、どこまでも身体に規定されるということ)
「無限」あるいは「無時間」を措定しないかぎり、
「等価」という概念が強度をもつことはないだろう。
「アノニマス」をただ主張してみせることの、
裏返しの所有欲と超越欲、そして政治性。
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投げ放たれた礫は、誰を打つのか?