Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui http://www.nobuhiro-fukui.com/

2005年5月の自分のコメントから抜粋(mixi)

おもしろい話ですね。
実際にあった出来事ではなく寓話かもしれません。
しかし、いろいろと示唆に富んでいます。


たとえば「幸福の総量は決まっている」という
考え方があります。テレビドラマのセリフにありそうで
気恥ずかしくもありますが、あながちバカにできない言葉です。


物質的・経済的な営み(個々の生活と社会活動全般)が
歴史的発展の原動力になっていること(史的唯物論)を
否定できないとすれば、
〔発展→勝利→幸福〕は〔物質→生産・消費→経済〕からのみ
生じるということになってしまいます。
しかし、物質(生産のための資源や原料はもちろん食糧も含む)
は、はかなくも有限です。つまり、そうした価値観においては
「限られた物質の獲得」こそが、
「幸福の享受」のための至上命題となります。


あらかじめ限られた幸福の奪い合い。。。
これは人間の歴史そのものではないでしょうか。


限られているのなら(枯渇すれば)、
ここではないどこか(他者)から
持ってくれば(奪えば)
いいじゃないか、
と。


さらには、
枯渇すれば(したので)他者から奪う(っている)、
ということを、さまざまなルール(“富める白い人々”が中心の
彼らが一方的に有利な)によって正当化(不可視に)すれば、
誰に(自分にさえ)とがめられることなく
胸を張って幸福を享受できる(し続けられる)、
こんな素敵なことってないよね、
と。



国家というシステム(国民ではなく“国家”という主権者)
にとって、国民感情などゲームの1パラメーターにすぎません。



「自」と「他」の間に何を媒介させるかが、
安定なり不安定なりを生み出しているのだと思います。
不安定なことに不安を感じるようなら、
その「何か」をセルフ・コントロールするすべを身に付けたり、
その「何か」をより強力で安定した体系をもつ価値に
置き換えるしかないかもしれません。
あとは選択による透過と遮断でしょうか。
あえてシンプルな自己を構築して
それを演じてみることも、
悪くはないでしょう。