Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui http://www.nobuhiro-fukui.com/

2005年9月のメモより(mixi)

 リーが截拳道の全貌を概論的に述べている『魂の武器』の第一章で語っていることは、たんに「型」の批判にとどまるものではない。最初に「型」を批判しておきながら、そのあと執拗に「型」を列挙してゆくことになるこの書物がそうであるように、その第一章で語られていることの多くは、否定と肯定の共存へといきつく。闘いのとき、思考を十分に活用し、たえず相手の動きを予測しながら隙を狙いその裏をかく、むだのない的確な動作がもとめられる、だが一方では、頭で反応せず身体で反応せよ、つまり攻撃とは無意識のなかから反射的になされねばならないといわれ、それが可能となるためにはつねにパターンを訓練=反復することが必要であると指摘されるのだが、同時に反復練習はファイターを束縛するのだと否定される。実戦=現実の「流動的」な「絶えず変化する」状況のなかでは攻撃および防御のパターンをいくら分析してみたところで普遍性をもつことなどありえないだろう、ゆえにある状況では有効とされていた攻撃法でも他の場合では無効とされ、いきつくのは臨機応変な姿勢である。つまり実戦において「型」は自ずと放棄されなければならない。だが、「型」によって「武道」は創出されるものだ。その「武道」が、実戦においては最終的に「型」を放棄しなければならないのであるならば、「武道」とはまさに不可能であるということにほかならない。だが、そこから「武道」とは開始されなければならないのではないか、ブルース・リーは、そういっているようにおもえるのだ。
「武道」とはかならずしも 〔中略〕 「鏡は、姿勢、手の位置、および技を不断に点検するために不可欠である。多くの武道家は、真実に気がつかない。その原因は、『より一層』を好み『何か変わったもの』を求めるからだ。真実は、単純な日常の動作のなかにこそある。触れ、感じ、見ることで、手中に出来るはずの真実を、大半の武道家は一点(全体ではなく)を探り掻き回すことで、知りそこなっている」。「自己を殺すための」技が、「本能的な」ものであり、「魂の象徴」だとするならば、「武道」とは、死への意思にほかならない。それは「勝つ」ことも「負ける」ことものぞまない、しかもその両方を欲する、たえず不可能性を背負い込みつづけるひとつの試みである。「武道」が、実戦において最終的に不可能になるのは、ルールも存在せず、「流動的」であり、変化と停滞を同時に日常とする現実においては、すべての「型」が無効化してしまうほかないためである。それゆえに「日常性」をとり逃がしてはならない。「日常性」とは「型」=形式化によってはみだしてしまったもののことであり、それをとり戻すことで、「武道」が截拳道が、ふたたび開始されることが可能となるだろうと、リーはいっているのだ。「鏡」を見るとは、自己の内面とむきあうことではない。リーは内面的なものを批判してもいる。それはたんにおのれの技がどのようなものかを確認するために見るということであり、表象された技を見るためであるのだ。 〔中略〕 「鏡」を見ることによって自分の技を変化させ、修正させることで、見る側のものが、「鏡」に表象されたおのれを模倣し、反復しているのである。「自覚」を推しすすめることによって、「自己」が消える瞬間。そこに残されるのは、「日常性」ばかりである。もはや、闘いの相手は消え、自己も消え失せている。そのときはじまるのは、すべての「型」を無効にしてしまう現実との、たえることのない闘争ではないのか……
阿部和重アメリカの夜』講談社文庫より)



なんとなく手にとって、
ひさびさに書き出しのあたりを再読しました。


まさに「武道」=「写真」だということに気付いて、
いきおいにまかせて書き付けてみたんですが、
それにしても引用、ながっ!