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僕は基本的に無神論者です。
でも、宗教の重要性や有益性は
よくわかっているつもりです。
誰だって、たまには、
念仏を唱えたり、
十字を切ったり、
西に向かって祈りを捧げたり、
したくなることがあるんじゃないでしょうか。
強引に買わされてしまった高額の壺を愛でるのもよし!
鰯の頭に向かって念ずるもよし!
だと思います。
個々人が個としての幸福を追求することが、
全体としての幸福につながるようなシステムが
理想ですね。当然のことだけど。。。
でも、そうしたシステムは成立させるのが非常に難しく、
ほとんど不可能だとあきらめてしまっているのが、
現在の状況のように思います。
だから、「全体」のくくりを小さくしていくのも
個々人の生存のための戦略として当然のことかもしれません。
世界→国家→特定の社会集団→家族→個人、へと。
それは、「くくり」の外側について関知しない、
「くくり」の内側さえ幸福になればよいという考え方です。
しかし、内側だけの幸福は、たいてい外側からの搾取によって
成り立っているものです。
そうした「くくりの小さな全体」を安定させるには、
その内側を肯定し、外側を否定するような、
ある倫理が必要です。
搾取構造を隠蔽するための倫理です。
それが、資本主義であったり、優生学的な思想だったり
社会ダーウィニズムだったり、するのかもしれません。
いま例に挙げた3つのうちの後ろから2つは、
ふだんそれと意識されていないだけで、
誰の心にも巣くっているものだと思います。
とても恐いことですが。。。
酒や薬物やギャンブルやセックスに依存するぐらいなら、
仏教なり、キリスト教なり、イスラム教なりに入信したほうが
はるかに救われるかもしれませんね。
いや、信教もそれが「依存」になってしまった時点でダメか。
宗教の起源は、この自然界における
人間存在の脆弱さにあるのかもしれません。
実在しない超越的絶対者を仮構する、
というシステムは、ものすごい発明だと思います。
人間と違って、超越的絶対者は、
現実に敗北を喫することはありませんから。
この世の如何なる酸鼻であろうと許容し、愚劣で、
無意味な生存を肯定する。此岸を「彼岸」として
生きる明確な意思さえあれば、人生は「甘美」な
奇跡で満ち溢れる。(久世光彦)