Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

アアーーカカイイブヴ

◇ papery 前田恭二 - off the gallery

10.18. アーカイブ

 写真・石井哲、文・大山顕『工場萌え』(2007年3月、東京書籍刊)をはじめ、ほかにダムや水門といった産業遺産の写真集が人気だそうだ。人気だということで、テレビその他のメディアで紹介されているのを時折見かける。コンビナートが風景として享受されるようになったのは端的に言って、風景として見ることのできる距離が生まれたことを意味しよう。柳田国男の言葉で言えば「要望なき交渉」、つまり果樹を生きる糧としてではなく眺めるのと同様の心理的な距離が、コンビナートの生産活動や労働との間にも生まれ、風景として眺められ、人気も博すようになった――というわけだが、しかし、それ自体は風景論の公式通りの話に過ぎない。興味を覚えるのは、すべてかどうか、ウェブ上のアーカイヴをもとにした出版が行われていること。デジタル写真の可能性ということが数年前、よく語られていたけれど、パーソナルで、趣味的な画像アーカイブが結局、果実の一つだったのかもしれない。

http://www.pg-web.net/off_the_gallery/papery/main.html


◇ 再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20061013#p4

■たぶん誰もがウェブでの活動をリヒターの「アトラス」を薄めたりちょっとズラしたようなかたちのコンセプトで説明したくもなるのだけれど……
私もある部分では、さして考えることもなく
自分のWebでの活動(このブログ 「練習場[仮]」ではなく
メインサイトのほう http://www.nobuhiro-fukui.com/)を
そういうふうに位置づけていたのですが。。。*1
先日、akfさん(http://akf.readymade.jp/AKF)の考察を読んで、
その段階で思考停止していてはダメだと思った次第。

「写真画像を使ったアーカイヴァルアートって最近いっぱいあるけど、それってどうして?何にみんな魅せられてるの?」という壮大な疑問だった。
それに対して交わされた様々な質疑応答の中で、そうか、アーカイヴァル・アートって、アーカイヴなんじゃなくって、作家が作戦としてアーカイヴ形式をあくまで「偽装」しているんだった、ということに今更ながら気づいた。だからこそ、今後の課題としては、アーカイヴァル・アートをリヒターとかボルタンスキーの比較考察などで収めるのじゃなくて、そういう欧米文化で培われてきた「アーカイヴの歴史」を偽装すらしようとしないアーカイヴァル・アート、気づいたら蹴散らしているようなアーカイヴァル・アートについても考えてみたい。

露光集+「演習発表 その後」(http://d.hatena.ne.jp/akf/20060930#p2)より

*1:「Webにアップするものは、展覧会で使うか使わないか微妙なカットです。あるいは、何かひっかかりがあって、その理由が自分でもわからないものです。何度も見直して自分で客観的に検討するために、Webにアップするようにしています。無条件で展覧会で使いそうなカットは、それとは別に寝かせておきます」(Every Sunday──福居伸宏 [Web写真界隈インタビュー記事より] http://dc.watch.impress.co.jp/cda/webphoto/2007/04/05/5996.html