Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

会田誠さんの「風景の光学的記録におけるイコン化の確率に関する研究」に関連して

会田誠は、どうせたいした事考えてないですよ。... - 殴って捨てる。

会田誠は、どうせたいした事考えてないですよ。
飯沢耕太郎も同じようなことを行ってました。[雲の写真撮ってもしょうがない]的な事を。会田誠が撮った写真を雑誌で見た事があります。「なぜだかわからないけれど自分にとって最高の写真だ」みたいな事言ってて、その写真は要するに佐内正史的な価値観や文脈にきれいにおさまる写真でした。わかりやすすぎ。あたりまえのことだけど、写真家じゃない人間には良い写真は撮れませんし、画家じゃない人間には良い絵は描けません。今こそ、こういう反動的な事をはっきり言うべきだと思います。


Posted by: uchihara at 2007年06月21日 19:29
dannna_o Blog: そこに「空」なんかない

http://nutter.tumblr.com/post/78399867
リファラをたどって発見。
これは美術家・内原恭彦さんの発言なんでしょうか。
カメラマンの大高隆(オオタカ・タカシ)さんのブログからのようです。


◇ OPPEI TUMBLr.

『(中略)こういう偶然できた雰囲気を、さも最初から求めていたかのように自分の作品でございと見せる、ロンドンに生まれたかったとか思っているアートやデザインのチンピラをオレは認めない。あと偶然から深層心理をひき出すとかぬかすデカルコマニーやロールシャッハめいたシュール系の作品も全部クソである。単なる雰囲気遊びが偉そうに言うな。』(8・・・・・・・・平面)


『(中略)資材置き場とかある種の建築現場というのはいい。未来を目指したポジティブな”建設”に向いながら、実際に作業にたずさわる土建関係の人々の性質ゆえか、なにか無気力で無関心な空気が漂っている。滅びのナルシシズムに浸った薄っぺらな廃虚(を素材にした作品)に較べた時、資材置き場の複合的な美しさがきわだつ。誕生に先だつシラケ(虚無、だとやりすぎでクサくなる)。ついでに言うと黒沢の「生きる」はまるっきりダメな映画だ。』(16・・・・・・・秀作)


『ウナギボーンのようだと思えば少しは愛嬌があるが、しかしやはりこういう図の存在を許すわけにはいかない。(中略)その点この図は、この世の一部を切り抜いてそれだけが全世界であるかのように人々を欺こうとする。全体主義的なフレーミングの詐術を、意識的にせよ無意識的にせよ使っている。またパラノイアという病人の表現もオレは認めない。』(27・・・・・・・・ゴミ(毒タイプ))


『(中略)こういうクソを描くヤツは、微妙でハッキリしないものこそ芸術だと浅知恵にも思っている。「見る人によって様々でしょうから、どう受け取ってもらっても構いません」だと?オマエはガキか。芸術っていうのは自分を他人にグリグリ押し付けて、同志みつけて感動したりケンカしてボロボロになったりするもんだろうが。それからこの手のバカは20と違って、本人は最先端の表現やってるつもりだからタチが悪い。ジイサンの御機嫌うかがいながら現代ヅラするんじゃねーよ。それにしてもジイサン、たまには上野の森から出ているかい?』(17・・・・・・・ゴミ(毒タイプ))


『(中略)作品はオカマっぽく作らなければいけないという自らの教訓を忘れ、男性ホルモンだけで作ったのが問題だった。けだし、芸術は潔くあってはなりませんな。』(227頁洋灰春秋図解説より抜粋)


『(中略)なんで日本中のコンビニでフランスのただの水が当たり前のように売られているんでしょう。なんでそれを需要するような人種に限って、空調の効いた部屋で地球の環境破壊を憂い、最新テクノロジーに身を包んで小自然でなく大自然に触れに行くんでしょう。そして、どうしてこれと共通したウサン臭さを現代美術の周辺でしばしば嗅ぐのでしょう。この、僕の中にもある<現代版・植民地の領主根性>とでも言うべき微妙な題材は、なかなか1作でカタがつくほど単純なものではないので、今後も縁があればいじくります。(作品集「孤独な惑星」より転載)(225頁ハンサムな詐欺師解説より抜粋)


『こんなのもあったなー。ほったらかしだなー。やなぎみわさんが「やりなさいよ」って言ってたなー。』(213頁「シリーズ「美少女不幸写真」解説より抜粋)


『(中略)次に突然別の方向から強烈な赤い閃光が、耳障りな電気的炸裂音とともに放たれる。古くなった蛍光管のフリッカー現象に似て、神経を逆撫でるように不規則に明滅し続けるネオンサインの文字は、ちょっと読みにくいが「殺す」。少年の頃からもう何千回書いたか分からない、僕の癖っぽい早書きの文字をベースにしている。この頃、「突然キレる少年」がよくニュースになっていたが、それほど他人事に思えなかった。殺意とは、広大無辺な宇宙の闇に突然現れる閃光だと思う。それが終わるとまた別の方向から、懐かしいSF映画でお馴染みの、どこかマヌケな「UFOが飛ぶ音」がしてくる。』(232頁黒い部屋解説より抜粋)


以上は「風景の光学的記録におけるイコン化の確率に関する研究 会田誠(社会人)」からの抜粋(数字のついてるやつは全部)と展会場で売ってたグラフィック社の作品集(ていうかこれ http://www.amazon.co.jp/gp/product/4766118049)からの抜粋
そういうものです

http://oppei.tumblr.com/post/78426204

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会田誠 x 山口晃 「アートで候」 上野の森美術館 - J0hn D0e の日誌

それはいいんだけど、その隣に、でっかい模造紙に手書きの字で、夏休みの自由研究っぽい「ポスター発表」があって、これが面白かった。

1995年の作品で「風景の光学的記録におけるイコン化の確率に関する研究」というもの。

簡単に言うと、新幹線に乗ってビデオカメラで窓の風景を撮影する。その映像をヒトコマずつ検証して、「絵になってる」と感じられるコマがどれくらいの割合で存在するか、というような研究。

確か、0.044%だったかな? 残りは「ごみのような」風景映像だ、ということで、その「傑作」と「ごみ」の写真をいくつか並べて解説(批評)付きで展示する、というもの。「傑作」のなかに、偶然人がうつってるのがあるんだけど、これがなかなか面白かった。

http://d.hatena.ne.jp/j0hn/20070528


会田誠はインテリやくざ - 松永天馬の記憶の記録(アーバンギャルド

総じて、サブカルや出版界といった周辺メディアでもてはやされながら本来の市場ではもっと評価されるべきであるふたりが、上野の森で大暴れ、といった印象。最後の展示室にあった会田氏の恐らく若い頃の作品…写真のイコン性についての研究作品は、夏休み最後にやっつけた小学生の自由研究みたいで非常に興味深かったです。


ただ、欲を言えばね、この「インテリやくざ」的なスタンスそのものが、今のカルチャー全体に蔓延し過ぎていて、ちょっと飽きたかなあという気もしてしまいました(例をあげるなら、菊地成孔とか菊地成孔とか、あと菊地成孔とか。大好きなんですけどね・笑・という文体も好きです・笑)

http://yaplog.jp/shinkiba/archive/285


◇ 「アートで候。会田誠 山口晃 展」(プレビュー) 上野の森美術館 - はろるど・わーど

この山口の「澱エンナーレ」に対する会田側の見せ場は、一階ギャラリーでの「風景の光学的記録におけるイコン化の確率に関する研究」(1995)や「ポスター(全18連作)」(1994)なのかもしれません。前者では会田のコメントこそがほぼぼ作品の核心です。ポスターに見る、とても拙ブログでは取りあげられそうもない凄まじい表現と合わせて、会田の社会に対する、斜めに構えたようで実はストレートな取り組みを見ることが出来ます。

http://blog.goo.ne.jp/harold1234/e/84113c6fbe1b6938d1b466e507148b18


◇ アートで候。 - WEB2.0(っていうんですか?)ITベンチャーの社長のブログ

一番面白かったのはギャラリーで展開されていた「風景の光学的記録におけるイコン化の確率に関する研究」というもの。仮説を立て、それを実行し、結論に至っているのだが、その結論がぶっ飛んでいて凄かった。ちなみに僕がこれを観ている最中、会田さんは自分でさらにこの研究に考察を書き加えていて(さっきまで別の場所に座って、ミヅマさんとおしゃべりしていたんだけれど)、「現代作家ってば、現場でこれをやっちゃうんだなぁー。「作品はアトリエで作られているんじゃない!展覧会会場で作られているんだ!」(織田裕二)って感じだなぁ」と思った。

http://blog.livedoor.jp/buu2/archives/50340592.html


上野の森美術館の『アートで候。会田誠 山口晃展』に行ってきました - ミュージアムショップニュース: 上野の森美術館

会田誠の『風景の光学的記録におけるイコン化の確率に関する研究」を小冊子で売っていれば確実にお買い上げですが、なかったので・・・残念です。(綾)

http://museumshop.cocolog-nifty.com/blog/cat11817507/index.html

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>>>空にレンズを向けた時点で写真は終わってると断言しておこう。(by 会田誠
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070619#p6


>>>会田誠の浅田批判 - ART TOUCH 美術展評
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070610#p10
※参考→http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-139.html
   →http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-140.html
展覧会カタログ『図録 アートで候 会田誠 山口晃展』の後ろのほうのページには、
松浦寿夫さんと岡崎乾二郎さんの共著『絵画の準備を!』(朝日出版社)を床に置いて撮影した写真の上に
「イラストですが何か?」(うろおぼえなので正確な文言は違ったかもしれません)
という言葉を殴り書きした作品(?)も掲載されていました。


◇ 「図録 アートで候 会田誠 山口晃展」を読む - 東京へ単身赴任中
http://daisan.exblog.jp/5736820/

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>>>『美術手帖』最新号(2007年7月)の特集が最高に酷かったです。

http://www.fujisan.co.jp/Product/2196/b/150436/
たとえば、会田誠氏なんかにいわせれば「毒」以外の何物でもないでしょう。
未だに『J-フォトグラファー』的価値観が猖獗を極めているということでしょうか。http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060528#p4
ホンマタカシ氏の「ホンマタカシ先生と“ニセ写真作家”ワークショップ」だけが救いだったと思います。

精神論が支配する日本の写真界で写真を理論化することは可能か?
まず作品の物理的条件や時間、フォルムなどの構造を読み解き、それを自分の
写真として再構築してみる。作家を目指す6名の若者と一緒に誌上ワークショップを開催。

また改めて書店でチェックしてみます。


「アートで候。会田誠山口晃展」(上野の森美術館 今日まで)と
岡崎乾二郎 ZERO THUMBNAIL展」(吉祥寺 A-things)が開催されていることですし。
いっそ、モダニズム陣営とネオ・ポップ陣営のガチンコバトルなんかを企画したほうが
よっぽど有意義であり、かつ面白いものになったのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070610#p10
※関連→http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080510#p3


>>>「地獄の居残りゼミ・劣等生 会田誠モダニズム絵画を叩き込む!」(仮)???
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080318#p3


>>>浅田彰村上隆と「原宿フラット」】 - 批評空間【批評空間アーカイヴ】
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080513#p10


>>>『appel vol.4 インタビュー特集|椹木野衣』より
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080704#p8


>>>冷戦について

以下、批評誌『REVIEW HOUSE 01』「after words」より、筒井宏樹さんの編集後記。

いま、日本の美術の状況はどうだろうか?この問いについて考えるとき、去年発表された会田誠浅田彰岡崎乾二郎批判の作品を思い起こす。岡崎の絵画を彷彿させるその作品は、タイトルによって名指しで批判が示されており、その露骨さからアイロニーともユーモアとも受けとめられず、もはや笑えないような不気味さだけが感じられた。あえて好意的にこの作品を受けとめるならば、現在の日本の美術界における布置に一石を投ずるものとして考えられるのかもしれない。浅田・岡崎の組み合わせは、村上隆によって企画されたイベント、原宿フラット(2000)の座談会に招かれたふたりであることを想起させる。この討議を岡崎・浅田組と村上・椹木組によるタッグマッチと考えるのは「下司の勘ぐり」であるとして浅田彰によって予め予防線が張られていたが、その後美大に入学し美術を学びはじめた者からみれば、現状はもはや対立構図どころか原宿フラットのような対話さえなく、棲み分けされた状況がいっそう加速化しているように感じられる。90年代に出版された美術の本で印象深いものが2冊ある。それは椹木野衣の著作『シミュレーショニズム』(1991)と、浅田・岡崎編集の『批評空間別冊 モダニズムのハードコア』(1995)。棲み分けされた現況下、この2冊を共に興味を抱くようになるまで少なくともぼくにはかなりの時間を要した。これらの本を跨ぐような開かれた対話の場として機能していた希有な例に美術雑誌『FRAME』(1990-1991)が挙げられるが、現在の閉塞した状況を打開するような新たな対話の場の構築を『RH』によって目指せればと考えている。

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080511#p2