Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080304#p4)

倉石信乃「インデックス雑感」より

 そして、写真の不在は、どのように具体的に記述されうるか。写真とともにある生は、どのように写真を放逐し、その不在に耐えるのか。例えば、サミュエル・ベケットのテクストにとって、写真はしばしば、記憶、とくに自伝性を帯びた私的な記憶の代理物であり、かつ「視触覚的」な物質を意味している。写真は、眼差しの対象として想起を促すとともに、まさに眼差しと想起の「間」で、手に取って具体的に破り捨てられる「物」でなくてはならなかった。


《なにもない壁。そんなふうに毎夜毎夜。起き上がって。靴下をはいて。ナイトガウンを着て。窓のところへ行って。ランプをつけて。光の輪のへりまであとじさりして、廻れ右をして、なにもない壁に向かって立つ。昔は写真がいっぱい掛かっていた。写真 … 彼はもうちょっとで、肉親の、と言うところだった。額縁に入ってはいなかった。ガラスもついていなかった。画鋲で壁にとめただけ。形や大きさはいろいろだった。上から下へ、一枚ずつ。今はない。こまかく千切って、散らした。床じゅうにばらまいた。いっぺんにじゃない。発作的に … なんの発作か、言葉が見つからないが … 発作に駆られたんじゃない。一枚ずつ壁から引きはがして、こまかく千切った。何年にもわたってだ。何年もの夜。今じゃ壁には画鋲しか残っていない。画鋲も全部じゃない。釘抜きといっしょに外へ捨てたのもある。紙のはしきれがまだついているのもある。というわけで、なにもない壁に立ったまま。》(サミュエル・ベケット「モノローグ一片」、高橋康也訳、『ベケット戯曲全集3』所収、1986年、223-224頁)


 『モノローグ一片』では、登場人物は、後期ベケットのテクストの頻出例に漏れず、緩慢に死を迎えようとしている。かつては壁中を覆っていたファミリー・ポートレイトが、長い間に外されていき、壁面はいまや画鋲の穴だらけとなる。そこには、二重に「痕跡化した風景」が現出する。一度目の痕跡は、過去の現実の喪失を補填する写真だった。二度目の痕跡は「現実の喪失を補填する写真」の喪失を補填する、画鋲、画鋲の端についた切れ端、そして壁面に穿たれた繊細な穴にほかならない。壁の穴は、パースを引いて言えば、インデックスである。「写真の死」はやがて訪れるだろう。前後してたぶん「写真の観察者の私」は滅びるだろう。一瞬たりとも他の自分と邂逅することなしに。現に写真はもはやない。私はすべて写真を破り捨てた。だが、「そこに穴はある」。それが希望か、それが問題だ。

※現代写真の動向2001「outer ⇄ inter」@川崎市市民ミュージアム カタログ所収