Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui http://www.nobuhiro-fukui.com/

昨今の映画状況についての座談会[寺脇研、荒井晴彦、宮台真司]での宮台発言です。(2006-10-03) - MIYADAI.com Blog

映画に限らずテレビドラマも音楽も「作家性のある表現」として受け取られる土壌が九〇年代に急に薄れました。最初にそうなったのは音楽です。カラオケボックスで歌われるのはCFソングやタイアップ曲ばかりで、コミュニケーションツールになる歌だけが売れはじめる。他人が知らない歌なのに自分だけ耽溺して歌う行為は、馬鹿にされ、忌避されます。この時期、かろうじて流れに組み込まれていなかったのが映画で、それ以外は小説や漫画も含めて全てそうなります。そういう15年前からの流れは、社会が成熟化して、共通する抑鬱感を抱える者が少なくなったことが背景にあります。抑鬱感を代弁する作品が「いい表現」と言われてきたのに、そうした代弁があり得なくなったのです。

 昨今の日本に特徴的なのは〈一行コメント化〉です。どんな作品が当るかをマーケティングリサーチすると「笑えた」「泣けた」「誰某が出てる」という一行コメントに乗るものだけ。欧米で一般的な、映画批評を読んで、メッセージ性を期待して観に来る観客は、いない。祝祭的な高度の興奮状態を求めて、のめりこむように映画を観る観客も、いない。寺脇さんの言うように、軽いコミュニケーションのネタになるかどうかで、動員が決まります。だから、アイドルを出演させ、スポットCMを大量に打てる、テレビ局が作った映画ばかりが当たる。一行コメント的なコミュニケーションのネタを提供できるからですね。
 作り手側の特徴は〈監督の専門学校化〉です。僕は幾つかのコンペで審査員をやってきましたが、ここ数年の変化がすごい。目立つのは〈ウエルメイド化〉で、よく出来ていても、型どおりで、訓練されていれば誰でも撮れる。すなわち表現としての価値が低いものが増えています。同じことですが、高度な表現に見えても、三池崇史風とか岩井俊二風とか、DVDを観まくってコピー&ペーストをするだけのものが増えています。すなわち、表現の内的必然性ゆえにこの手法が選びとられたと感じられない作品が増えているのです。別言すれば、専門学校出身者が多くなり、かつてのように学生運動あがりで観念的営みに淫したことのある東大・京大・早稲田のインテリが映画監督することも、なくなりました。
 これも音楽が先行しました。「アーティストからDJへ」という変化が起こったのです。表現の内発性や主体性が評価されず、状況を観察して観客が求めるメニューをすばやく提供する敏感さが求められるようになることを言います。メッセージを発信することよりも、その場の人間を気持ちよくさせることが優先されるわけです。映画の世界でも「アーティストからDJへ」と似た変化が起こりました。

 欧米の役人や大学教授と面談する場合、自然に映画や音楽の話ができます。ところが日本のインテリ系は映画を観ないし、彼らが観に行って満足できる映画がかかる小屋も少ない。だから批評も成り立たず、インテリ系が観に行かない。そういう悪循環です。作品単体の価値もさることながら、それをめぐるコミュニケーションを通じてさらに作品を味わったり批評が深まっていく土壌が後背地として広がらなければ、僕たち世代が愛でたい映画も確実に尻すぼみになります。蓮實的なものは後背地が消えることに加担したのですね。
 裏腹ですが、インテリがこれほど世界観に関心がなく、認識が甘い国も珍しいでしょう。映画どうのこうのという枠に収まらない問題です。深いコミュニケーションで深い価値観を滋養する者がそれなりにいないと社会が存続できなくなります。英知に満ち感受性の開かれたコミュニケーションの、触媒として、映画や音楽や小説などの表現があってほしいものですが、日本ほどインテリの深いコミュニケーションや触媒的表現が乏しい国もない。
 音楽や小説が大衆化する中で、映画をめぐるコミュニケーションだけは、金のかかる表現であることも手伝って、インテリが価値観や深さを競う場になり続けてきました。ただし日本は例外です。そうした「映画をネタに教養を競うコミュニケーション」が日本にもかつてありましたが、今はない。もう一度目に見える形でそれを復活しないと、いい作品ができても語る者がおらず、客も呼べません。だから最近の僕は、映画専門学校が拡がる動きを、作り手教育だけでなく観客教育の拡大につなげろと、関係者に申し上げています。

http://www.miyadai.com/?itemid=411
作品のサプリメント化や一行コメント状況といったことで、たまに思い出す記事です。