Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui http://www.nobuhiro-fukui.com/

初校(2012年03月03日)

【コラム連載 第2回 エンリーケ・ビラ=マタス『ポータブル文学小史』】


平明な言葉が織り成す不可知の迷宮
──エンリーケ・ビラ=マタス『ポータブル文学小史』



歴史書ではない「前衛芸術史小説」とは?
 夜、私はノートパソコンに向かってひたすらキーボードを打鍵している。数ワードの文字列を画面に並べてはデリートキーの繰り返し。呻吟しながら、スペインの作家エンリーケ・ビラ=マタスの代表作の一つ『ポータブル文学小史』についてのなにがしかの文書をひねり出そうとしている。とっくに締め切りは過ぎている。『ポータブル文学小史』という風変わりなタイトルの本書は、四六版にして実質百六十数ページのボリュームであり、現在の趨勢からすれば比較的コンパクトな小説──そう、文学史についての書物ではなくフィクションとしての文学作品だ。
 この平明かつ込み入ったテクストが彼の地で発表されたのは1985年。すでに邦訳されているビラ=マタスの小説『バートルビーと仲間たち』よりも15年前の作品だと、たった今検索を済ませる。ビラ=マタスが欧州各国で名声を獲得した出世作だということだが、英訳は未だ出版されていない。改めて帯に目をやる。“スターンの小説に由来する秘密結社シャンディ。作品は軽量でトランクに収まり、高度な狂気を持ち合わせ、独身者の機械として機能する──特異な三条件をクリアし、謎の結社に集ったモダニストたちの奇妙な生態。”とある。そして、デュシャン、ピカビア、フィッツジェラルドベンヤミン、クレー、アルトーらの言葉……らしきもの(本当?)が、列挙されている。
 これだけでは、批評家の論集あるいは歴史書だとも受け取れる。そして実際、書店の新刊棚の平積みで手に取り、そう受け取る。ちょうど1年前のことだ。スターンとはローレンス・スターンであり、シャンディとは未完の長編『トリストラム・シャンディ』(紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見)のことだろう。美術史に明るいとも暗いとも言えない中途半端な私だが、その秘密結社の存在が気になる。シャンディ? 聞いたことがない。トランクはデュシャンと結びつき、『〜小史』のタイトルはベンヤミンの著書を示唆する。“独身者の機械”というフレーズは、デュシャンカフカ、ミッシェル・カルージュを一直線に貫くが、装丁を改めて眺めると、帯の背に“前衛芸術史小説”の文字がひっそりと並んでいる。歴史書ではない。が、どんな本なのだろう? と、すでに絡めとられている。20世紀の美術と文学の歴史に名を刻んだ先ほどの固有名の連なりが私の背中を押す。それはちょうど1年を経て、たった今この時に帰結する。そう、私は今ノートパソコンに向かってこの文書をひたすら打鍵している。呻吟しながら、数ワードの文字列を画面に並べてはデリートキーの繰り返し。とっくに締め切りは過ぎている。


20世紀初頭の前衛芸術家たちが登場
 それにしても身の丈に相応しない難題に、迂闊にも、手を伸ばしてしまったものだと今となっては後悔している。文学について語るべき言葉はほぼ持っていない。ノートパソコンが熱を持ってきている。締め切りが私を原稿に向かわせている。昔であれば、タイプライター──例えば1920年代のレミントン・ポータブル──をひたすら打鍵するようなこの夜の孤独な営みは、『ポータブル文学小史』に登場する秘密結社シャンディのメンバー──先の6つの固有名に加え、サンドラールオキーフ、ツァラ、ヴァレリー、ミショー、クレー、ブルトンボルヘス、ダリ、ジョイス、シュヴィッタースペソアブランショ、エルンスト、マン・レイ、アレイスター・クローリー(書き連ねて行くと切りがないオールスター)たち──によっても連綿となされてきたものだろう。私はノートパソコンに向かってひたすらキーボードを打鍵している。数ワードの文字列を画面に並べては、夜はさらに深まる。デリートキーの繰り返し。
 エンリーケ・ビラ=マタス、あるいは作中でわずかに顔を覗かせる、このテクストの語り手である「ぼく」が、作中作でもある『ポータブル文学小史』を綴ったのは、ダダの余燼くすぶる戦間期のわずか3年間の出来事だ。1924〜1927年にかけての欧州各国の都市、そしてアフリカなどを舞台に、秘密結社シャンディの面々、すなわち20世紀前半のアヴァンギャルド運動にかかわった実在の人物たち──本書の中では“シャンディ”あるいは“ポータブル”などと呼称される──は、この奇妙な散文世界に取り込まれ、不思議な星座を形づくっている。完全なる虚構かと思えば、どうやらそうでもない。“いずれも二十世紀前半に芸術と文学の世界を疾風のように駆け抜けた前衛主義運動のスターで”──と訳者の木村栄一はあとがきに記している──“そんな彼らのとんでもない冒険を語ったストーリーを読んでいると、作品全体が純粋なフィクションであるかのように思われるかもしれないが”“細部は歴史的な事実がきちんと押さえられており、引用文の出典も多くは跡づけることができる点を考えると、純粋なフィクションとは言い切れず、「文学史」と名づけたのもあながちいいかげんな思い付きではないと考えられる”。つまり本作は、歴史上の人物をジョン・バース的手捌きで料理したポストモダン文学、メタ小説だと言うことができ、私はノートパソコンに向かってひたすらキーボード打鍵している。日本で言えば、高橋源一郎の『ジョン・レノン対火星人』などの例を思い出す向きもあるかもしれず、その同時代(80年代)に書かれた作品だというのもぴったりくる。数ワードの文字列を画面に並べてはデリートキーの繰り返し。夜は白み始める。


引用と虚構によるタペストリ
 だからといって読みづらい小説なのかというと、そうではない。ヌーヴォー・ロマンのような晦渋さはなく、簡潔で余分な装飾のないテクストが続く。すでにして様々なプレテクストをまとった固有名に、さらなる色付けは必要ない。著名な人物たちが各地を転々と旅しながら繰り広げる、突飛な物語として読むのであれば、それはそれで奇矯な群像劇として興味深く読めるだろう。しかし他方で、そのポータブルなテクストが生み出しているものは、記述のフラットさに反して、読もうと思えば無限の読解へといざなうインターテクスチュアリティ(間テクスト性)の複雑な網目、20世紀初頭の前衛にまつわる膨大かつ微細な史実の集積とそれに拮抗する虚構の複雑な織物だ。ところがここで、ある疑問が浮上する。それは、いったい誰がこの書物をあまねく理解しうるのか、といった問題だ。ヨーロッパ的な知を一から十まで徹底的に叩き込まれた彼の地のエスタブリッシュメントであれば、ビラ=マタスが読み手に仕掛けてくる知的な文脈ゲームを読解しうるのだろうか? そんなことを考えながら、日本のアートが置かれている状況──例えばドメスティックorインターナショナル──のことを考えたりもするのだが、ノートパソコンに向かってひたすらキーボードを打鍵しているうちに朝を迎えた私は、紙幅が尽きたことに気づく。
“いいかい、無限というのはとるに足らないものなんだ。それはエクリチュールの問題なんだよ。宇宙は紙の上に存在しているにすぎないんだ。ポール・ヴァレリー『テスト氏』”(本書エピグラフより)



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◇ 福居伸宏 Nobuhiro Fukui (n291) - Twitter

「ファウンテン」第2号 http://t.co/5tVoiC5A の連載コラムでは、エンリーケ・ビラ=マタス『ポータブル文学小史』(訳:木村榮一 平凡社 http://t.co/9v622jT9 )を取り上げています。私の手には余るのでやや苦し紛れの文書になってしまいましたが…

RT @heibonshatoday: 今日の毎日新聞にエンリーケ・ビラ=マタス『ポータブル文学小史』(平凡社)の短評が掲載。「で、読み始めたのだが……さっぱりわけがわからない。三回読んだのだが、依然として意味不明。この本を敢えて紹介する理由のひとつはそれである」http://t.co/pA3LAP4e

リンク切れしていたのでキャッシュより→【木村榮一 今週の本棚・新刊:『ポータブル文学小史』=エンリーケ・ビラ=マタス著 - 毎日jp(毎日新聞) 2012年3月4日 東京朝刊】http://t.co/K4ElP2LK ※ちなみに本が刊行されたのは2011年2月

「ファンテン」創刊号では、バンクシーの『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』を取り上げました。第1稿はこちらを → http://t.co/bFzjpCtA ※DVDは先月発売されています。特典映像が見たいです。http://t.co/ewGoECEF

https://twitter.com/#!/n291/
※2012年03月08日 http://twilog.org/n291/date-120308


>>>第1稿(2011年09月14日)

【コラム連載 第1回 映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』】
バンクシーの介入(ルビ:インターベンション)
棘と機智に満ちたアンビバレントな爆弾

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20120124#p2

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20120329#p4