Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090428#p7)

■音楽家・小田寛一郎さん(http://www8.ocn.ne.jp/~fhs/)のはてなダイアリーより
2009-04-02 - http://d.hatena.ne.jp/k11/

以前にも見た記憶はあるのだけれど、大阪玉造のブックカフェ「beyer」のサイトが変。いい意味で。じぶんとこの所在地を示したグーグルの地図がメインのビジュアルに。http://www.beyerbooks-pl.us/ とにかく眠いのでさっさとメモ。Glimpse「Black Collection」とRicardo Villalobos「vasco」とVillalobos「Fizheuer Zieheuer」とGuillaume & The Coutu Dumonts「Face L'est」で、さんざん一ヶ月くらい前からときたまタワレコに寄る度に迷っていて、たんにどれでもいいのだけれど、ひとつしか買えない、という縛り。なぜか。で、とうとう今回はGuillaume & The Coutu Dumonts「Face L'est」になる。青木淳さんは田中功起さんとの対話(http://tenplusone.inax.co.jp/dialogue/dialogue005/dialogue5_1.html)を読んでから気になってはいたのだけれど(「原っぱ」のコンセプトとか)、昨日というか今日、糸井重里さんとの対話(http://www.1101.com/architecture/index.html)、 淵上正幸さんによるインタビュー(http://www.com-et.com/colonne/002/aoki/01.htm)を読んで、がぜん興味が増す。ところで、「ことば」と「状況・行為」との関係、という意味においては、田中功起さんと島袋道浩さんはどこか近い。と思って「田中功起 島袋道浩」でググってみたら、いぜん「田中功起」でググって出てきたの(これも面白い。http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-125.html)と同じ書き手の方のブログが出てきて、まさにその類似と違いについてすこしだけ書かれていた。http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-162.html これはとっても面白い。かなり鋭いところを突いている。「ことば」と作品としての「状況・行為」の関係付けの仕方や、そのために記録メディアを使うところまでは共通しているけれども、自分=作者がどのような立場にいるかが、このふたりではまったく違うのかもしれない(そこに「記録」の使い方の違いも出る)。「状況・行為」のなかにおいて、島袋さんはあくまで自分が当事者だが、田中さんは徹底して状況・行為、モノ・コトが当事者だ。そこが違うだけでずいぶん違うのかも。物語の主人公としての島袋さんに感情移入できないと、ぜんぜん面白くないのかもしれない(ひょっとしたら私もその部類に入るかも、、)。ひととおりこのブログのこのエントリを読んでいくと、島袋道浩さん=「すすめ電波少年」説が、けっこう説得力をもって感じられてくる。そういわれてみれば、そうともいえるような、、と自分の意見を持たない私は思ってしまうのだけれど、青木淳さんについてのメモに辿り着いていないよ。淵上正幸さんによるインタビューにおける、「動線体」について語っているところの「不均質なワンルーム」とか、「原っぱ」について語っているところの「そこであらかじめするべき目的意識の空間ではなくて、やってみたら何かやりたいことが見つかっていく空間」とか、そういう微妙な矛盾の発見が面白さなのかなと思う。「やってみたら何かやりたいことが見つかっていく空間」っていう表現が成り立つ空間そのものが矛盾しているわけで、空間を通じた行為が目的を生み出す、という因果関係でいえば逆行しているようなことがイメージされていて、これがすごく面白いし、私も体験したことがあるし、というか、そういう体験をするためにだけなにかをやっているとしか思えなくなってきた、最近は。

http://d.hatena.ne.jp/k11/20090402


2009-04-15 - http://d.hatena.ne.jp/k11/

そしてもうひとつ厄介なのは「つくる」ためにつくられること。つくりたいからつくる、という。「答え」を出すために無意味で不必要な「問題」をつくりだすことに似ている。解くための問題など問題ではない。というのもあって、アートとか音楽とか、なにかを創作すること一般によくあるけど、「やりたいからやる」とかいうぼんやりした同語反復は正直よくわからない。「自分はなぜこれをやるのか」という問いから逃げて、「やる楽しさ」だけに閉じ篭っているようにしかみえない。「自分はなぜこれをやるのか」っていうのは、別に、社会的に価値があるかどうか、とか、需要がある=社会に求められるかどうか、とかいうはなしではなくて、ただたんに、自分はどのような欲求で動いているのか、というだけで、それに無自覚だと、ただの独り善がりなひと・こと・もの、になるのではなかろうか。そしてこれはよく言われることだと思うけれど、アートとか音楽とか、なにかを創作すること一般をやることで満たされるのは、表現・自己実現欲、自己顕示欲、承認欲(他人に認められたい!)あたりで、創作にまつわる人間のこういう欲求をうまく刺激して経済に結び付けたのが、たぶん出版代行(新風社とか?)とか箱貸し・スペース貸しビジネス=ライブハウス・クラブ・貸しギャラリー、なのではないかと思う。作品の発表を代行する、という意味では出版代行(新風社とか?)もライブハウス・クラブ・貸しギャラリーも同じだ。出版代行と、イベント代行、展示代行。発表の場をあなたに!という「発表機会提供サービス」。サービスの対価さえ支払えばとりあえずだれでも発表できる。もちろん敷居はいろいろだろうけれども。こういう仕組みでややこしいというかあざといなというか鬱陶しいなと思うのは、明らかに「発表機会提供サービス」というビジネス=商売でありながら、文化を盛り上げるとか文化を担うとかアーティストをサポートするとか言うだけで、公共の利益、公益性があるかのようにみせかけられること。「発表機会提供サービス」が成立するためには、大量の発表したい人、創作者、アーティストがいることが必要なのだけれど、ということはつまり、大量の表現・自己実現欲、自己顕示欲、承認欲が市場に溢れていないといけない。これはもう考えるまでもなく、溢れるほど溢れている。仕事に打ち込めない、仕事を通して社会に関われない人たちの表現・自己実現欲、自己顕示欲、承認欲がどこに向かうかというと、アート(広い意味での)しかない。社会と関わる、他人と関わる、いわゆる「仕事」と違って、アートの世界では自分だけの価値観に閉じ篭ることができる。いまの時代って、なんでもかんでも相対化されてしまうので、自分の価値観=自分のやっていることが「客観的に」否定されることがない、というか原理的にできない(「人それぞれ」)。なにかをやってもやった本人の主観だし、そのなにかについての判断を下したとしてもそれをした人の主観だ、ということになっている。とにかく「意図」=「主観」という閉じた自己の世界。自分のやったことがつまらないとかダメだとか言われたり、客がこない、とかなったとしても、鑑賞者・消費者が悪い(時代がついてきていない、理解できないのが悪い)というふうに捉えるか、創作者・生産者の力量がない(もっと頑張らないと!)、ってことになり、そのふたつの問題について考えるだけで、そのまえの「なぜつくる」・「なぜみる」というようなところを無視したまま、欲求の連鎖だけが続いてゆく。そして「発表機会提供サービス」も続いてゆく。平間君と冗談交じりにはなしたのは、ライブハウスのブッキングライブに出演して、いくばくかのチケットノルマ(という名の参加費=発表機会提供サービス料)と引き換えに40分の出演枠を得る(買う)とする。そしてさらにその得た40分の出演枠を4つに区切り、それぞれにチケットノルマを課して出演者を募る(ブッキングライブ内ブッキングライブ)。そしてさらにその10分を4つに区切り、それぞれにチケットノルマを・・・以下同文。ということをやれば、論理的には、ねずみ講みたいに莫大な利益をあげられるのではないか。というか、構造は同じなんじゃ。そしてそのピラミッドのいちばんうえにいるのは「ライブハウス」という。出版代行と違ってそういう箱貸しが問題にならないのは、借りる側が文句を言わないからで、なぜならお金を払ってでもやりたいから。それがなぜかというと、もう書いたし、「客を呼べるようにさえなれば・・」というゴールが設定されているので、文句を言わずそれをみんな目指しているから。広い意味でのアート・創作の大量生産大量消費サイクル、大量の生産者と大量の消費者というサイクル(大量の商品・大量の消費者ではなく)、ってひょっとすると、一般の商品のサイクルよりタチが悪いというか、デザインが大量消費に荷担していることよりもひどいのかもしれない。

http://d.hatena.ne.jp/k11/20090415