Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

[資料 2013-11-08]「写真とは何か?」「写真行為」の無意味

◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2011年01月26日 - Twilog

RT @yuki_tomi: @nukisuke デジタルしか使ったことないくらいの若い世代の人が、「表層性」とかのキャッチフレーズを鵜呑みにして満足しちゃうような風潮があるとしたら、それそこで止まっちゃだめだって!って思ったりとか。

キャッチフレーズといえば、「網膜派」とか「ネオ・ピクトリアリズム」とか「デジタル・ピクトリアリズム」とか…飯沢耕太郎さんの言うところの。http://3.ly/NGMb http://3.ly/wEQg http://3.ly/bCyN

1)空気頭。2)キャッチフレーズ[写真行為なども含む]の自己目的化。3)そうした自己目的化とねじ曲がった自意識で乗り切ってきた上の世代をそのまま反復。4)それが現在の[も?]日本で有効だということを読んで風見鶏的に。などでは? RT @nukisuke RT @yuki_tomi

「写真論」という言葉がそもそも良くないように思います。「写真理論」で良いと思うんですが。Susan Sontag: On Photography が『写真論』として出版されたことも影響してるんでしょうか?

http://twilog.org/n291/date-110126/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2011年10月01日 - Twilog

ある世代以降の人にとっては、「メロンパンとは何か?」という名のメロンパンをもったいぶって差し出すような滑稽なことだと思います。<@DIY69 そうかしら?Let's make it memorable. - Übungsplatz http://t.co/Rz8COJeZ

馬とは何か?鹿とは何か?鋏とは何か?的な問いを立ててみれば、おのずと広義のユーティリティの話にもつながったりするのかもしれません(^^;<@otanikei 写真とは何か、という「解けない問い」のまえで誠実に絶句すること。といえば聞こえはいいか。

“うんたらクラブや写団なんたらを下部構造に組み入れた写真プロパー(もちろん悪い意味での)の間でサロン的に脈々と受け継がれ共有されている、たちの悪い奇習なり宿痾なり何なりの犠牲者”“このプロパー的風土病がちょっとばかり巧妙な亜種となりながら相変わらずアウトブレイクしまくってる状況”

http://twilog.org/n291/date-111001/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2011年10月02日 - Twilog

「写真とは(略)」云々に回答せよという問いがあったとしても、単に広辞苑なり国語辞典なりを引くことを勧めるか、確定可能な解はありませんと正直に申し上げるだけでしょう。ナンセンスです。そもそも、ほかならぬ制作主体こそがその先に何もないことを一番よくわかっているはずです。<@DIY69

ステートメントは作品や活動に補助線を引くようなものです。「写真とは(略)」云々についての話ではありません。<@DIY69 .@n291 たとえば、これが『【私にとって】写真とは何か』を語ることだと考えますし、それは自然だと感じます。 http://t.co/18SGnEJE

「●●●●とは何か?」と「私にとって●●●●とは何か?」を同列に語ること自体に誤りがあります。前者は真理や本質についての問い、後者は関係についての問いです。<@DIY69

いえいえ、お気になさらずに。「…とは何か」的な発話をするのが芸術家であるというふうな一般的な思い込みには、メディアの問題があります。作家を戦前あるいは19世紀な存在としてキャラクタライズしたがりますから。それを見た人々が旧套的なものを刷り込まれてしまうという悪循環。<@DIY69

[リピートあるいは言い換え]たいして何も考えていないのに「…とは何か?」などと軽はずみに発言し、私的な問題でしかないものを一般的な問題にすり替えるような語り口(ほとんどキャッチコピー。しかも大昔に流行した議論の口真似)で大見得を切ったところで、簡単に底が割れてしまうだけでしょう。

http://t.co/bDt4oTDx  http://t.co/CbuROWYX http://t.co/E3D8ZH4Y http://t.co/K59iZIA6 http://t.co/CcYavAIx

再囀:これにびっくりした人も多かったはずです。当時。【戦争(戦場)を撮りたい by 本城直季氏】http://t.co/1jxfg5Tj

http://twilog.org/n291/date-111002/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年03月31日 - Twilog

“40、50歳になっても、マイペースに充実した制作・発表をしています…日本は特殊かもしれない、年齢とともにチャンスが減るというのもどうかな、と思います…スイスでも80年代生まれの作家はたくさんいますが、ガツガツしていない”(東亭順さん)http://j.mp/YL6ToS

ハンス・ヨゼフソン(Hans Josephsohn)の場合→http://j.mp/YL7M0C  http://j.mp/YL7Qxn  去年のスイスアートアワード(swiss art award)の場合→http://j.mp/YL7reu

@nakashima001 ヨーロッパと日本では、社会的な背景、アートの世界のシステム、人々の成熟度など、異なっている部分も多いので、そういったところから気長に改革していかないといけないですね。難題だと思います。日本では、多くの鑑賞者が未だにメディアや代理店の手のひらの上ですし。

【対談:佐々木正人(生態心理学者)×塚本由晴アトリエ・ワン)より塚本由晴さんのことば】http://j.mp/14xSS1E

再囀:【佐々木正人 編『包まれるヒト〈環境〉の存在論http://j.mp/AhQaN3 が部屋の中から出てきたので、ホンマタカシ『たのしい写真 よい子のための写真教室』に収録された対談のどこがどのように変更されているか比較】http://j.mp/ypksAY

【「ポストモダン」「脱構築」を連発する人を素直に信用できないのと同様に、むやみに「アフォーダンス」「クオリア」を連発する人を素直に信用できません】http://j.mp/14xU2KC ※零度、写真行為、テラン・ヴァーグ、、、はもちろんのこと、ゲニウス・ロキ等も同様。

http://twilog.org/n291/date-130331/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年04月01日 - Twilog

(アート・)ファッション・ヴィクティムは正しくヴィクティム(生骸)になるべきではないでしょうか。そういう人々の世界はそういう人々の世界として(救いようのない人もいれば、そうではない人もいるはず)、近い将来きっとこの世界(そして時代)は変わるでしょうし、変えなければならないはず。

「写真行為」は、典型的な思考停止ワードですね。http://j.mp/Z3gpj7 また、何もかもわかっているふうに「(その写真は被写体に)撮らされている(写真にすぎない)」といった言葉(じつは口真似)を連発する写真学生あがりの人もたまに見かけます。<@ka2saiki

【Elephant #13】http://j.mp/Z3hoQl Post-Photography号を立ち読み。確かに表面的にはファッショナブルですが。。テイストだけ引っ張ってくる一群の若手(?)が現れてきて、またまた阿鼻叫喚?http://j.mp/Z3hGXu

http://twilog.org/n291/date-130401/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年04月02日 - Twilog

齋木克裕 Katsuhiro Saiki@ka2saiki
「写真行為」という言葉がもともとどのような経緯で生み出されたのかは興味があります。ピクトリアリズムなどのいわゆる芸術写真を否定しながらも、作品ではなくてアクションを強調することで、それが芸術であるという後ろ盾を得ようする方法だったんでしょうかね。 @n291

「写真行為」という言葉は、ストレート写真の成立あたりと関係があるということなんでしょうか?ジル・モラの本にも「photographic act」という項目 http://j.mp/XTRSOb があるようなので、また機会があればチェックしてみます。<@ka2saiki

お気に入りフレーズ。“隊長、あそこの山肌になにやら人影らしきものが!”“レストランで料理をオーダーしたはずなのに、「お待たせいたしました」と皿だけ持ってこられたとき、おそらく大半の人はまず反射的に自分の側のミスを考えるはずだ。”http://j.mp/YTP3Nv

こちらもよくよく考えるべきポイントがいっぱいです。http://j.mp/XTYmg0 http://j.mp/XTYgFd

[以下、過去の自分の言葉より。2007年3月]写真家がよく使う「行為」という言葉について少し。「行為としての写真」とか、「写真行為」とかいう言い回しを好む方も多いのですが、私自身は、この言葉をほとんど価値のないものだと思っています。結局は表現されたものがすべてです。その行為=

アクションが鑑賞者にダイレクトに働きかけ、ある経験として何らかの感覚をもたらさないかぎり、その行為にさしたる意味はありません。少なくとも鑑賞者にとってはそうです。だから、写真を使ったオーソドックスな表現の場合は、表現主体が「行為」「行為」といくら言い募ろうとも、それは単なる

自己満足に陥っていることがほとんどです。ほぼ自己肯定のためのスローガンとして、「写真行為」というふうな言葉が利用されているにすぎません。これは「写真行為」なんです。わかるだろ? とか言われても、私にはさっぱり何のことやらです。いや、それは大げさでした。気持ちはわからなくもないので

すが。。。それに、「行為」=「作品制作のための活動」だとすれば、そんなことは当たり前のことですし、とりたてて発言すべきことではないでしょう。写真村の外の人々に聞かれたら失笑を買うだけだと思います。また、いくら「写真行為」なるものを積み重ねてみても、結果がすべてなので、

本人以外の他者にとって、その行為自体には、たいした価値はないでしょう。「写真行為」なる言葉を殊更価値のある事のように吹聴し、自らのキャラを立てるという、いぎたない手段もなくはないとは思うのですが。。。まあ、私には関係のない話です。(少し加筆)

齋木克裕 Katsuhiro Saiki@ka2saiki
僕が思ったのは日本の写真史でこの言葉が導入された時期があって、それが後に形骸化して単なる自己肯定のために使用されているのかなということだったのですが、photographic actという言葉があるんですね。知りませんでした。僕も読んでみます。 @n291

齋木克裕 Katsuhiro Saiki@ka2saiki
ジル・モラの"photographic act"の項目を読んでみましたが、ピエール・ブルデューが使い始めて、フランスの理論家の間で記号論的な文脈で用いられ、ソフィー・カルなどの作品に影響を与えた、写真の生産だけでなくその受容も含んだ用語という紹介でした。 @n291

齋木克裕 Katsuhiro Saiki@ka2saiki
僕が日本語の「写真行為」という言葉から受ける印象はこれとはちょっと異なっていて、作品ではなく、撮るという行為の強調という印象があります。日本独特の言説があったんでしょうかね? @n291

ジル・モラの本ですが、日本語訳は「写真行為」となっているようです。欧米での「フォトグラフィック・アクト」という概念は、ブルデューが使い始めた言葉だったんですね。何だかいかついです。物凄く厳密に使われていそうです。<@ka2saiki

ストレート・フォトグラフィーの日本への伝播っていつ頃なんでしょうか?伊奈信男の「写真に帰れ」は、方向性としてはそちらのベクトルですが、より広い概念のようですし。堀野正雄とかからなんでしょうか?(ポール・ストランド的なところがあると個人的には思っています)<@ka2saiki

齋木克裕 Katsuhiro Saiki@ka2saiki
日本関係の書籍ほとんど置いてきてしまったのでちょっと確認できませんが、おそらくそうだと思います。根拠はありませんがストレート・フォトが受容されたあと、なんらかのかたちでそのストレート性を補強するためにその言葉が要請されたのかなと推測します。 @n291

「プリズム」系の平木収さんが、「CAMP」(森山大道さん、北島敬三さん、倉田精二さん、徳永浩一さんほか、のちに尾仲浩二さんらも参加)の写真を「生き様フォト」http://j.mp/vgs5Aw という言葉で表現したあたりが、曲がり角のような気がします<@ka2saiki

齋木克裕 Katsuhiro Saiki@ka2saiki
新興写真のころに行為を強調する必要があったようには想像しにくいので、おそらく重森弘淹がリアリズム写真を批判したころに、ストレート・フォトの根拠として出て来たのかなと。推測の域をでませんが。 @n291

日吉でも「写真行為」信仰は根強いんですね。そういえば、荒木経惟さんも「写真行為」という言葉をよく使います。むしろ、荒木さんにはぴったりフィットする言葉だと思いますが。ヘタに後追いするとセルフ・プロモーションや単なる“自己パンダ化”になってしまうと思いますけども<@ka2saiki

「写真行為」の件は、日本的な状況をつくりだしている非常に不健全なインプリンティングであり、教育の問題だと思っています。http://j.mp/14BlRBy ということで、詳しくはまた後ほどお願いします^^<@ka2saiki なるほど。「生き様フォト」面白いですね。

行為云々の話でいうと、「アウトサイダーのようにつくり、理論物理学者のように発表する」みたいなことって、アーティストにとっては至極当たり前のことでは??僕自身はまだそうした境地には至っていませんが。。。ってことで、がんばっていかねば!(^^;

【「生き様フォト」に生きる人々の生き様は……|生き様/死に様|あらゆる「表現」のカラオケ化】http://j.mp/Z2TCea あと自分の誤用についてメモ→「いぎたない(寝穢い)」http://j.mp/Z2UjEi http://j.mp/Z2Uwrd

メモ。比喩として使用しないと微妙でしょうか。【茹でガエル - Wikipedia】“自然科学上の実験結果であるかのように語られているが、実際には、カエルは温度が上がるほど激しく逃げようとするため疑似科学的な作り話が広まったものである。”http://j.mp/ZxFmDo

“パリ第3大学のフィリップ・デュボワである。もはや写真論の古典的名著と言ってもよいL'Acte photographique (1982, 90)のあと単著を出していないせいか…彼の仕事は日本ではあまり知られていないように思う”http://j.mp/ZxFy5u

1984年【L'acte photographique】http://j.mp/ZxGiaS 1986年【The Originality of the Avant-Garde and Other Modernist Myths】http://j.mp/ZxGbvT

単行本の出版年のみメモということで、専門の研究者であれば当然のことなのかもしれませんが、一瞬「おっ!」と思ってしまいました。Rosalind E. Krauss「Notes on the Index: Seventies Art in America」は1977年。

Pierre Bourdieu監修の『Un Art moyen. Essais sur les usages sociaux de la photographie』(写真論 その社会的効用)は1965年。http://j.mp/ZxHTgN

【姜美賢「行為としての写真 ― モダニズム写真の枠を超える写真表現として」(2011年)】http://j.mp/ZxIeAe ※インターナショナルな専門的文脈(?)ではまったく別の話になってくるようです。むしろ逆向きのベクトルと言ってもよいかもしれません。

http://twilog.org/n291/date-130402/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年04月03日 - Twilog

昨晩は仕事後にWS個人講座。作品をどのように言語化するか、プレゼンテーションするか、そこにどのようなツッコミが入るか、先々のことを見据えた上で一貫性のある態度をとること、浮ついた事、思ってもいない事を話さないことなどについて、延々と1時間半以上対話。良い結果が出ることを期待します

「写真行為」@日本写真、関連メモ。「純写真」という理念を担保するための口実、通常の営みとの差異化、撮影・現像・セレクト・焼き付け等々というプロセスの複数性の中での撮影の優位、「自己表現」なら何でも良かった系(単にちやほやされたかった)との親和性……といったものが関係ありそうです。

また、「みんなこうしてきたんだ、だからお前も俺らといっしょに茹で蛙になろうぜ」「そうであってこそ〈写真〉」的な泥沼図式も「写真行為」なる言葉と結びついてそうです。もちろん、先行世代が生きてきた時代は経済成長に下支えされており、ある部分では呑気に作家稼業を営むことができた……写真は

未開のジャンルであり、十分に民主化されていなかったがゆえに教育の現場等々に就業の場があった……みたいなことを考えておかないと、先行世代がつけた轍を辿るのはけっこう自殺行為でしょうし、むしろ食い物にされるだけというか。

http://twilog.org/n291/date-130403/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年04月04日 - Twilog

最後に補足。仙台展のときにツイッター等で検索すると、「(私も)志賀理江子になりたい!」という発言が結構あったりしました。これは日本のカラオケ的作家志願者に共通するものなのかもしれませんし、悪しき「写真行為」とも結びついているものなのかもしれません(e.g.森山大道になりたい!)。

志賀さんの作品は日本の悪しき「写真行為」的風土とも親和性が高いのでしょう。その一方で、「写真行為」ということでいうと、ブルデュー→デュボワの「写真行為」で上手く論ずることができれば、清水穣さんのメディウム・スペシフィシティに依拠した論なども撥ね除けることができるのかもしれません。

http://twilog.org/n291/date-130404/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年04月09日 - Twilog

ジル・モラ『写真のキーワード』(原著はPhoto SPEAK)の「写真行為」の項目を読んで、その可能性について考えました。写真において、共感的コミュニケーションが生じている場合(あるいはそれに失敗している場合)にも使えそうな概念だと思いました。エミール・バンヴェニストの名前も。

[一行ネタ]文脈の雨乞いと説明責任 http://j.mp/145QuQA

http://twilog.org/n291/date-130409/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年09月05日 - Twilog

再度(https://twitter.com/n291/status/131364907919753216 ):写真と対象とのインデクシカルな関係とはヘソの緒のようなもので、それが切れた途端に胎内という所与の防壁から引きずり出されてしまうわけで、馬鹿でもできるという写真のデモクラティックなメリットを放棄してしまうことになり、柵の外で…

“ちなみに私は、「被写体」「シャッターチャンス」「写真行為」といったふうな言葉を使わないようにしています。……と、同様に「リアル」「リアリティ」などという言葉も当時から使わないようにしています。現実というものは確かにあるでしょう。しかし、その現実というのは仮に

人間の五感で捉えたものであったとしても、「現実そのもの」ではなく、現実から受けた感覚刺激が脳内に現象したものにすぎないという。 つまり、人間であれ、カメラのような機械であれ、「現実そのもの」にアクセスすることは不可能だと思っています”http://j.mp/15zNNYV

再度(https://twitter.com/n291/status/260388772414373888 ):美しい、リアル、感動した、泣ける、、、等々、そうしたものが、1世紀後、2世紀後の世の中でまったく価値のないごく一般的に調達できるようなものになってしまうのだとしたら? そうした事態を想定したうえで作品制作について考え…

“俺たち(うちら)のリアル”や“……時代(世代)のリアリティ”で制作しても仕方がないということ。首尾よくいけば一過性のものとしてチヤホヤされるのかもしれませんが。リアルやリアリティをベースに制作するのであれば、妥協なく個的な「それ」を追求すべきであって、世間などに同調する必要なし

これらはワークショップでも話していることです。【オブセッション・ベースでの制作について】“パーソナルなものを起点にした表現の場合”http://j.mp/15zRspN ※参考としてまとめました。

「なんとなくクリティカル」http://j.mp/SuSgTl とか、「動物化する“ごっこモダン”」http://j.mp/1cIVcV6 とか。 ※1行ネタより

http://twilog.org/n291/date-130905/allasc