Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

[資料 2014-11-30]“批評の不在”というクリシェとアーティスト

◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年12月30日 - Twilog

法・道徳・倫理・社会通念の外側にあるものも芸術とみなしてよいとする立場は、それはそれでアリだと思いますが(普通)、凡そ全ての人間は純粋な社会外存在として生を営むことはできないので、作品とは別に作者が一定のサンクションを受けるということも否定できない事実なのでしょう(これまた普通)

http://twilog.org/n291/date-131230/allasc

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◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年04月09日 - Twilog

[一行ネタ]文脈の雨乞いと説明責任 http://j.mp/145QuQA

http://twilog.org/n291/date-130409/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年10月27日 - Twilog

ちなみに、“批評の不在”といった言葉は永遠になくならないと思っています。つくる側でいえば、“言説の雨乞い”を求めることを止めることのできない人々がいなくならないかぎり。そういう“怠惰な精神”とは別のところで、つくる人は何かをつくるでしょうし、書くひとは何かを書くでしょう。

反実仮想。もし日本で批評が十全に機能していたのだったとしたら、自分の出る幕などなかった、入り込む余地などまったくなかった、到底デビューできる隙はなかった、、、といったふうに考えてみること。それは、つくり手にとっても、書き手にとっても大切なことのように思われます。

こうしたことを考えたことがない方ほど、“批評の不在”などと叫びたがるような傾向にあるのでは?と、個人的には思っています。そして自分がふるい落とされない程度のぬるさが求められていたりとか。※http://j.mp/Ha5geW http://j.mp/Ha5m6k

http://twilog.org/n291/date-131027/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年10月23日 - Twilog

そこがアーティストという存在が社会的に認められている場所なのだとすれば、すでに与えられたグリッドの上をうろうろしているような人がアーティストであっては意味がないわけで、教条的なものに付き従ってやっているのであれば社会的職能を全うできていないのでアナタ必要ないよねという当然の結果に

裏を返せば、その存在が社会的に認められていない場所であればこそ、アーティストとしての社会的職能を全うしていなくとも(そんなものはそもそも期待されていないし、社会的な機能として実装されていない)、なんとなく吹き溜まっていけるわけでしょうし、ぬるーく、ゆるーく。なんて思ったりとか、、

【資料 2013-10-24】http://j.mp/16u2ZBI

http://twilog.org/n291/date-131023

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◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年09月17日 - Twilog

【2005年11月】“写真は基本的に他のジャンルに比べて非常に貧しく弱いものだと思っています。しかし、その貧しさゆえにかえって逆説的な豊かさを持っていることが、写真の強みだと思います”http://j.mp/151gfgE ※http://j.mp/151glVu

作品は作家の概念・思想を運ぶContainer(コンテナ)です。写真が何百年も物質的に残るなどと考えている時点でその作り手の程度が知れると考えています。永遠という虚構を嘘だと知りつつも守らねばならない美術館にとっては別なのでしょうけど。http://j.mp/151gSXi

http://twilog.org/n291/date-130917/allasc