Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

291 workshop 読書会 第1回(2014.03.17) スーザン・ソンタグ『写真論』より「プラトンの洞窟で」についてのメモ

▽表紙の写真について
https://twitter.com/n291/status/445705444921581568


▽前書き
※第1回ではここを飛ばしてしまいました。『写真論』所収のエッセーは、そもそも写真をふんだんに使った記事で『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』誌に掲載されたものだった。いずれ元の記事にもあたりたいところ。それほど詳しく検索していませんが、初出のPDFは発見できず。


▽大判カメラのフィルム
http://j.mp/1sKRtiS


▽ブローニー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%BC


▽Brownie (camera) ※いわゆる「The Kodak Camera」
http://j.mp/1sKRYcw


▽ニエプス ダゲレオタイプ フォックス・タルボット カロタイプ
詳しく学びたい方はこちらを→http://www.amazon.co.jp/dp/4422211692
※クエンティン・バジャックはMoMA写真部門の現チーフキュレーター


橋本一径 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E4%B8%80%E5%BE%84


▽ベルティヨン式 - Google 検索
http://j.mp/1sKWlnY


▽洞窟の比喩 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E7%AA%9F%E3%81%AE%E6%AF%94%E5%96%A9
そもそも「プラトンの洞窟」からの脱出は不能。なのに、その議論を冒頭に持ってきており、かつエッセーのタイトルになっているのはどうか?
プラトンの洞窟の比喩が、カメラ(カメラ・オブスキュラ)のアナロジーとして使われている。
※読み直すと「写真の眼が、洞窟としての私たちの世界における幽閉の境界を変えている」という文言が重要かもしれません。ソンタグも出られないことはわかっている?


▽映像による知育
写真(光学的な映像)による/工芸的な映像(絵画など)によるの対比。
※ただし、カメラの原型となったカメラ・オブスキュラは、絵画を描くための装置や見せ物として使われてきたという背景もあり。
神戸芸術工科大学紀要芸術工学2007 | 映像装置カメラ・オブスキュラの研究
http://kiyou.kobe-du.ac.jp/07/report/10-01.html


▽イブン・アル=ハイサム
http://web.canon.jp/technology/kids/history/02_ibn_al_haytham.html
http://j.mp/1kTN4FI


▽映画・テレビと写真との比較
ムービング・イメージを想起すること/スチル・イメージを想起することの違いはどこに?


▽「写真映像のいかがわしい魔力」というフレーズ
日本の写真にまつわる言説でも、やたら「いかがわしい」「写真のいかがわしさ」「鵺のような」みたいな言葉が使われます。その源流に、このソンタグの言葉があったりするのかもしれません。


ゴダールの映画『カラビニエ』(1963)
https://twitter.com/n291/status/446136417970683904


▽写真と所有の問題
写真機=カメラを持つことで人格が変わってしまったりすることがあること、自動車を運転すると気持ちが大きくなってしまう人がいたりすること、などからある機械なり装置なりメディアが人間の精神にどういった作用を及ぼすかについて話題になったりしました。


▽モダニティの淵源としての写真映像


マルクス主義ソンタグ
ニューヨーク知識人(The New York Intellectuals)
http://twilog.org/n291/search?word=%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AF%E7%9F%A5%E8%AD%98%E4%BA%BA&ao=a


▽「疎外」はマルクス主義のターム?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%8E%E5%A4%96


▽活字→抽象/写真→対象化
対象化できるがゆえに所有できる。
http://kotobank.jp/word/%E5%AF%BE%E8%B1%A1%E5%8C%96


▽「あのファウスト的エネルギーと精神の損傷のおまけも、」
このセンテンスが意味するもの含意しているものがよくわからない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%88


▽活字・絵・デッサン/写真映像
活字・絵・デッサン→ひとつの解釈、取捨選択した解釈
撮影された映像→世界の断片、現実の小型模型、だれにでも作れる
この違い。ただし、後者がフレームによって取捨選択しているという議論に立ち入らない場合。


▽「世界の断片」という言葉
森山大道が多用するフレーズ。「世界の断片をきりもなく収集することこそが写真の本性(ほんせい)」うんぬん……とか。


▽だれにでも作れる
写真はデモクラティック(民主的)なメディアだというふうな話がなされることもしばしばです。
ただし、ウィリアム・エグルストンの「デモクラティック」概念はやや込み入ったものがあるようです。何だかアルフレッド・スティーグリッツの「イクイヴァレント」のような感じも。
※齋木克裕さんの読み
https://twitter.com/ka2saiki/status/224317861852749824
https://twitter.com/ka2saiki/status/224318701195902980
https://twitter.com/ka2saiki/status/224318448874954752
https://twitter.com/ka2saiki/status/224317955905818625
https://twitter.com/ka2saiki/status/312061396605091840
https://twitter.com/ka2saiki/status/312062473161277440


▽「写真は世界の尺度を自在に操るが、自分のほうも縮小されたり、……」
「自分」(原文:themeselves)は、写真のことです。ちょっと面白い発想なので、作品の着想にも結びつくかもしれません。
あと、「自在に操る」の原文は「fiddle」です。どちらかというと悪い意味です。
http://ejje.weblio.jp/content/fiddle


▽本の中の写真
映画と本の違い。流れる時間と留まる時間。


クリス・マルケル『ひとこぶらくだが四頭あれば』(1966)
現在の日本語版タイトルは『もしラクダを4頭持っていたら』。
原題『Si j'avais quatre dromadaires』。
http://youtu.be/yIVU6TDLFFg
http://www.yidff.jp/2013/program/13p3.html
※リンク切れ用 http://www.tofu-magazine.net/newVersion/pages/4%20dromadaires.html


パリ・コミューン
写真を証拠にパリ警察が支持者側を検挙。記録写真による正当化。ベルティヨン式に結びついていく。
※当時は大判カメラで高速シャッターが切れないのに、どうして証拠写真が?の件
http://twilog.org/n291/search?word=%E3%83%91%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%B3&ao=a
中平卓馬の沖縄ゼネスト警察官殺害事件(松永事件)関連
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%82%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E5%AE%98%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
http://www.ipm.jp/ipmj/kohara/kohara72b.html (この章の最後の節を)
※※第10回重森弘淹写真評論賞受賞 小原真史「中平卓馬試論 カメラになった男」
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060316p6


▽「一枚の写真はそれがどういうものであれ……したがって最も正確な関係を……崇高なる大家にしても、ますなによりも『そこにある』ものを写して見せたいのであって……ぱちぱち撮る写真狂いと変わらないのである。」
ロラン・バルトによる写真の本質(ノエマ)=「それはかつてあった」(Ça-a-été)。
シュルレアリスムと写真。犯行現場とアジェ。
ポラロイド・カメラ普及の歴史については要調査。
1970年代。つまりダイアン・アーバス自死からMoMAでの回顧展、その大反響があって以後の状況というコンテクスト。※この『写真論』全体を貫いているものでもあるかと思います。
一方で、写真にまつわるこうした議論が、なぜいまだ説得的に響くのか?という疑問も提出されました。


▽「絵画や散文で描いたものは取捨選択した解釈以外のものではありえないが、写真は取捨選択した透かし絵として扱うことができる」
「取捨選択」という言葉がここでも。
「透かし絵」が含意しているものとは?


▽「しかし、およそ写真に権威と興味と魅力を与えるものは……」
このセンテンスの読みに注意。要原文参照。
「写真家のやる仕事は芸術と真実の間でおこなわれる(芸術家が芸術と真実の間でおこなう)」の意?


▽FSA
FSA(Farm Security Administration; 農業安定局または農業保障局)
FSAプロジェクト
http://ja.wikipedia.org/wiki/FSA%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88
FSA(農業安定局)プロジェクト | 現代美術用語辞典ver.2.0
http://artscape.jp/artword/index.php/FSA%EF%BC%88%E8%BE%B2%E6%A5%AD%E5%AE%89%E5%AE%9A%E5%B1%80%EF%BC%89%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88
1930年代の終わり。FSAの写真はドキュメンタリーですが、その背景には機械主義とアヴァンギャルドの思想があるかと思われます。一つ前の段落のポール・ストランド、そしてFSAのウォーカー・エヴァンズやベン・シャーン、ここには記されていませんがルイス・ハインなどは、写真のメカニカルな記録性が、よりよい社会を築いていくことに資するといった考え方を持っていたと思います。ストランドは当初から当局にマークされており、戦後は赤狩りアメリカを追われて欧州に移住します。


▽写真もまた「ひとつの解釈」
絵画やデッサンと同じように、作者の意図(無言の声)から逃れることはできない。
「自分の主題に対していろいろな基準をはめている」
この基準をどんどんと解体していくことが、モダンからコンテンポラリーに至る過程で(日本では一部でまだそれが根強く続いていたりとか)、さまざまなかたちで試みられてきたように思います。ただし、現在それを写真でおこなうことで何らかの優れた作品にすることは、ますます困難になってきていると私は思っています。


▽写真の記録がもつ受動性と遍在性=写真の「メッセージ」であり攻撃性
受動性と遍在性が攻撃性という転倒。※偏在ではなく遍在であることに注意。
無媒介性(受動であるがゆえの直接性)と無差別性と言い換えてもよい?
この「メッセージ」という言葉は気になるところ。読書会でも話しましたが、ソンタグはパリに留学もしていましたし、もちろんバルトを読んでいたようです。
“フランスの哲学者・記号論学者R.バルトは〈写真はコードのないメッセージである〉と定義した(《写真のメッセージLe message photographique》1961)。”http://kotobank.jp/word/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88
このあたりの関係については今後要調査。


▽「写真術がそもそもの始まりから受け継いできた約束、つまりあらゆる経験を映像に翻訳することによって民主化するという約束の実現」
攻撃性←→受動性と遍在性の裏表。
民主化。共有可能性。このエッセー「プラトンの洞窟で」の冒頭の議論との結びつき。


▽写真が芸術になった歴史的な経緯
産業化の結果、社会的効用が生まれ、その反動が芸術としての写真の自意識へ。ただし、これはソンタグの読み(ソンタグがいかにそれまでに書かれた写真史や写真論の書物を読んでいたかは、http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-7265-2 を参照)。その読みにアビゲイル・ソロモン・ゴドーらの論がどのように響いているのかは要調査。


▽写真の大衆化
職業写真家とアマチュア
(1970年代当時では)ありふれた娯楽になった。
家族写真。カメラの普及台数。
家族制度のゆらぎ、核家族化の始まりと家族写真。
「ふつうは拡大家族」という部分も気になるところ。
拡大家族といえば、ナン・ゴールディン。そして後のヴォルグガング・ティルマンスにも結びつく話題。
と思ったら、ナンは拡大家族という言葉を独自に定義していたようです。“”付きの言葉のようです。通常の意味は次のリンクを。
http://kotobank.jp/word/%E6%8B%A1%E5%A4%A7%E5%AE%B6%E6%97%8F


▽ツーリズムと写真
観光とカメラ。
写真が経験を証明するとともに、経験を狭めたりする話が語られています。今もよく語られる話題。
読書会では、なぜ旅行と写真(カメラ)が強く結びつくのかについて、いろいろな見解が出ました。
※ペーター・フィッシュリ&ダヴィッド・ヴァイス (Peter Fischli & David Weiss)「Visible World」http://j.mp/1kEat15 本はいずれ通常のWSでも紹介したいと思います。観光写真の戦略的利用と作家主義写真へのからかい、選ぶこと見ることなどなど。
※N.E. Thing Co. Ltd「Art in America, May/June」(1969)http://vancouverartinthesixties.com/archive/471 フィッシュリ&ヴァイスの先駆となる作品だと思われます。
※ディスカバー・ジャパン(1970-)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%91%E3%83%B3 中平卓馬の著作などによれば、プロヴォークのアレ・ブレ・ボケを広告表現に取り入れたとされるが、しかしこの言説は要再検証の部分もあると思います。
※1970 国鉄 DISCOVER JAPAN - YouTube
http://youtu.be/LmVVocTbe_0
※[PDF]ディスカバー・ジャパンをめぐって : 交錯する意思から生まれる多面性
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/25556/1/NG_32_131.pdf
中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』
http://d.hatena.ne.jp/imagon/20091007
※メモ
https://twitter.com/n291/status/454815107118145536
https://twitter.com/n291/status/454816001859665921
https://twitter.com/n291/status/454816715528867840
https://twitter.com/n291/status/454817986826600448
https://twitter.com/n291/status/454821337249218560
https://twitter.com/n291/status/454822961954832384


▽「ドイツ人と日本人とアメリカ人にはとりわけ具合がよい」という指摘。
「過去を奪われた民族は国の内外でもっとも熱心な写真愛好家になるらしい」という一文も味わい深いです。


▽「団体志向の日本人観光客の謎に取って代わられた」
1970年代にすでに指摘されているとは。


▽ツーリズムの写真と広告写真
そして写真の中には決して姿を見せない撮影者、あるいは撮影者が映り込んでいたとしても、想像的にしか考えることのできない不可視の点、ライトコーン(光円錐)の収束する先。


▽「カメラによって平等にされている」
写真の受動性と遍在性(無媒介性と無差別性)による。
「あらゆる出来事の意味を平均化する」この攻撃性。
そして、写真を撮り写真を見る者が、世界を覗き見るという習性を獲得してしまうということ。


▽「私たちの状況感覚そのものが、今日ではカメラの介入によって明瞭になっている」
この段落、ケビン・カーター(Kevin Carter)の「ハゲワシと少女」の一件とも関連付けて読むことができます。
https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%B1%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%EF%BC%88Kevin+Carter%EF%BC%89
https://twitter.com/n291/status/435332562534146048


▽「ヴェトナムの僧侶が」
ティック・クアン・ドック Thích Quảng Đức
http://j.mp/1qnNl66
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF
マルコム・ブラウン Malcolm Browne
http://en.wikipedia.org/wiki/Malcolm_Browne
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3


▽「ベンガルのゲリラが」
http://darrananderson.files.wordpress.com/2012/06/page-11-bengali-guerrila.jpg
ホルスト・ファース Horst Faas
http://blogs.pjstar.com/eye/2012/05/10/legendary-combat-photographer-horst-faas-1933-2012/
http://www.washingtonpost.com/file---in-this-dec/2012/05/10/gIQA3t02GU_photo.html
https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B9
Sontag – The Photographs |
http://darrananderson.com/sontag-the-photographs/
※『写真論』の他のパートにも言及している良いリンクですが、ただし残酷描写注意。


▽ジガ・ヴェルトフ Dziga Vertov
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%AC%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%95
『これがロシヤだ』『あるカメラを持った男』『カメラを持つ男』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%82%92%E6%8C%81%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%94%B7
Man with a Movie Camera
http://en.wikipedia.org/wiki/Man_with_a_Movie_Camera
The Man with the Movie Camera(1929) - YouTube
http://youtu.be/z97Pa0ICpn8


アルフレッド・ヒッチコック『裏窓』
Rear Window - Trailer - (1954) - HQ - YouTube
http://youtu.be/6kCcZCMYw38
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%8F%E7%AA%93


▽「身体的な意味での介入とは相容れないにしても、カメラを使うことはやはり参加のひとつの形式である」
参加型アートなんてものもありますが、この「参加」には何らかの作品に結実する芽があるかもしれません。
http://artscape.jp/artword/index.php/%E5%8F%82%E5%8A%A0%E5%9E%8B%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88
『関係性の美学』N・ブリオー | 現代美術用語辞典ver.2.0
http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%80%8E%E9%96%A2%E4%BF%82%E6%80%A7%E3%81%AE%E7%BE%8E%E5%AD%A6%E3%80%8FN%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BC
敵対性 | 現代美術用語辞典ver.2.0
http://artscape.jp/artword/index.php/%E6%95%B5%E5%AF%BE%E6%80%A7
「ヴィデオ ナルシシズムの美学」ロザリンド・クラウス | 現代美術用語辞典ver.2.0
http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%80%8C%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%87%E3%82%AA%E3%80%80%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AE%E7%BE%8E%E5%AD%A6%E3%80%8D%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9


▽「写真を撮る行為は消極的な監視以上のものである」
パノプティコン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%8E%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B3%E3%83%B3
パノプティコン」の検索結果 - IN THE STUDIO:佐藤守弘の講義情報
http://d.hatena.ne.jp/satow_morihiro/searchdiary?word=%A5%D1%A5%CE%A5%D7%A5%C6%A5%A3%A5%B3%A5%F3


▽「写真を撮るということは、あるがままのものごとにそして……共犯関係を結ぶことである」
「あるがまま」は日本の写真にまつわる言説の中でも頻出する言葉。「裸形の現実」とか。
中平卓馬 http://www.amazon.co.jp/dp/4990123948
森山大道 http://amehare-quotes.blogspot.jp/2007/03/blog-post_03.html
清水穣は「砂漠のディスクール」という言葉で、こうした言説を未だに繰り返してしまう愚を批判していたりもします(しかし、本当に可能性はないんでしょうか?もちろんそこから展開していかないと意味はありませんが)。
http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/992/


▽「アーバスのポップな言葉を使えば、それはやくざな稼業ということになる」
アーバスの言葉をポップだと表現していることが興味深いです。


ミケランジェロ・アントニオーニ『欲望』
http://j.mp/1qnXZKc
雑貨屋さんで見かけるコレです。90年代的。
http://stat.ameba.jp/user_images/bf/dc/10134300144.jpg
Blow-Up Trailer 1966 Extended Version - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2Xz1utzILj4
Blow Up on Vimeo(full)
http://vimeo.com/7875387


▽「距離をおいて突き放してこそおこなえることである」
写真を撮るには距離が必要。距離0で対象と接触していては撮影することができません。
しかし、この距離が(写真的な)対象化を可能にします。


マイケル・パウエル『血を吸うカメラ』(Peeping Tom)
https://twitter.com/n291/status/449106937586532353


▽写真と射撃
ブラウン・ベス・マスケット銃
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%B9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E9%8A%83


ヤシカ・エレクトロ35GT YASHICA Electro 35 GT
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0908/25/news003.html


▽エティエンヌ=ジュール・マレーと写真銃
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%8C%EF%BC%9D%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC


▽「銃や自動車と同じく、カメラも使っていると中毒になる妄想機械である」
しかし、「カメラが死を招くことはない」。


▽「ちょうどカメラが銃の昇華であるのと同じで、……ソフトな殺人なのである。」
カメラで撮ることの暴力性。


▽「ハンターたちはウィンチェスター銃の代りに、ハッセルブラードをもち、……銃はカメラに変身した。」
“手つかずの自然”というものがなくなった時代。


▽「写真術は挽歌の芸術」
写真と郷愁。


▽「美しい被写体も年をとり、朽ちて……写真はすべて死を連想させるもの(ルビ:メメントモリ)である。」
メメントモリは伝統的な芸術の主題。
メメント・モリ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%8B%E3%82%BF%E3%82%B9
ヴァニタス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%8B%E3%82%BF%E3%82%B9
荒木経惟アラーキー)の言説。「メメントモリ」→「エロスとタナトス


▽「この瞬間を薄切りにして凍らせることによって、すべての写真は時間の容赦ない溶解を証言しているのである。」
「時間の容赦ない溶解」がやや理解しづらい部分。
写真のもつ時間性(経年変化の遅さ)と人間の身体のもつ時間性(経年変化の早さ、寿命の短さ)により生まれる事態について考えることは有効だと思います。


▽近代化・工業化の果てに、環境問題、エコロジーに対する考え方が広がった時代
オイルショック(oil crisis)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF


▽「過去との小さなつながりを与えてくれる」


▽「写真は偽りの現在でもあり、不在の徴である。」
ベンヤミン幼年時代ベンヤミンの写真とカフカの写真
ロラン・バルトにとっての母の「温室の写真」(『明るい部屋』)


▽「魔術的な気分」
ジャン・ボードリヤール『消滅の技法』
http://www.amazon.co.jp/dp/4891945591


▽「それらはもうひとつの現実と接触しよう」
ジェームズ・ボールドウィン『もう一つの国』→森山大道「もうひとつの国」


▽「欲望には歴史がない」/「独特感情の方が歴史にはめ込まれており」
「欲望を喚び覚ますのと良心を喚び覚ますのとでは、写真の利用にほとんど正反対の規則が通用する」


▽マシュウ・ブラディ
マシュー・ブレイディ Mathew Brady
http://en.wikipedia.org/wiki/Mathew_Brady


南北戦争の写真
※リンクはまた改めて


▽「西海岸の二世が……ドロシア・ランジの写真」
ドロシア・ラング Dorothea Lange
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B0
※リンクはまた改めて


▽「写真は時間の明解な薄片であって流れではないから、動く映像よりは記憶に留められるといえよう。」
テレビ映像とスチル写真の比較が続きます。ただし、どちらが記憶に留められるかは、何とも言えない部分です。もしスチル写真の方が有利なのであれば、テレビCMの映像が動くことはないでしょう。


▽ヴェトナム反戦運動に一役買った写真
「ナパーム弾を浴びた南ヴェトナムの裸の女の子が……」
http://framednetwork.com/wp-content/uploads/2012/06/Screen-Shot-2012-06-08-at-9.29.01-AM.png
ただし、トリミングの効果に注意
http://i1150.photobucket.com/albums/o617/redsvn/2012/10/Vietnam_World_Press_Photo/Vietnam_World_Press_Photo_06.jpg
フィン・コン・ウト Huynh Cong Út ニック・ウット Nick Ut
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%88
http://en.wikipedia.org/wiki/Nick_Ut
ファン・ティー・キム・フック Phan Thị Kim Phúc
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%AF


▽フェリックス・グリーン(Felix Greene)
http://en.wikipedia.org/wiki/Felix_Greene


▽マルク・リグー マルク・リブー(Marc Riboud)では? 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%96%E3%83%BC
※Vietnam! Vietnam! In Photographs and Text by Felix Greene | propagandaphotos
http://propagandaphotos.wordpress.com/2011/10/20/vietnam-vietnam-in-photographs-and-text-by-felix-greene/


▽「ひとつの事件がまさしく撮影に値する者を意味するようになったとしても、……写真によって道徳的に影響される可能性の決め手は、それに関連した政治的な意識があるかどうかということである。……」
この段落に記されていることは重要かと思います。


▽ドン・マッカリン(Don McCullin) ドン・マッカラン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%B3


▽痩せ衰えたビアフラ人の写真
http://www.harpersbazaar.co.uk/going-out/who-what-where/best-of-don-mccullin-3#slide-9


▽ウェルナー・ビショフ(Werner Bischof) ワーナー・ビショフ ヴェルナー・ビショフ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%95


▽インドの飢饉の犠牲者の写真
Werner Bischof - INDIA. 1951 - Magnum Photos
http://www.magnumphotos.com/Catalogue/Werner-Bischof/1951/INDIA-1951-NN145783.html


トゥアレグ族(Tuareg)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%B0
http://en.wikipedia.org/wiki/Tuareg_people


▽「写真はなにか目新しい者を見せているかぎりはショックを与える。不幸なことに賭金はこういう恐怖の映像の増殖そのものからもだんだんつり上がっていく。」
センセーショナリズム
http://kotobank.jp/word/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%87%E6%83%85%E4%B8%BB%E7%BE%A9
イエロー・ジャーナリズム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0


▽「ベルゲン=ベルゼンとダッハウ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%BC%E3%83%B3%E5%BC%B7%E5%88%B6%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%83%E3%83%8F%E3%82%A6%E5%BC%B7%E5%88%B6%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80
Photographs of Dachau Concentration Camp | Jewish Virtual Library
http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/Holocaust/dachaupictoc.html
Bergen-Belsen Photographs
http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/Holocaust/belsenpictoc.html


▽「苦悩の映像と暮らすことはまたべつである。……写真など見なかった場合よりはたしかにもっと現実味を帯びる。……しかし何度も映像にさらされると、それも現実味を失ってくる。」


アレクサンドル・ソルジェニーツィン収容所群島
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80%E7%BE%A4%E5%B3%B6
東浩紀のデビュー論文「ソルジェニーツィン試論―確率の手触り」(1991/1993)『郵便的不安たち#』所収
http://www.amazon.co.jp/dp/4022613785


▽「ボルノグラフィーに対すると……」
そもそも感覚刺激のすべてにこうした逓減現象がみられるのかもしれません。
限界効用逓減の法則 とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E9%99%90%E7%95%8C%E5%8A%B9%E7%94%A8%E9%80%93%E6%B8%9B%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87
限界効用 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%90%E7%95%8C%E5%8A%B9%E7%94%A8
苫米地英人による限界効用逓減の法則の解説 - YouTube
http://youtu.be/1DpDYCwqmss


▽「三十年後には飽和点に達したのかもしれない。」
つまり、1975年前後のこと。


▽「この三十年の間に、「社会派」の写真は両親を目覚めさせもしたが、少くも同じくらい、良心を麻痺させてもきたのである。」
現在それが、どういったフェイズに入っているのか考えてみることが大切かと思われます。


▽「写真の倫理的な内容はもろいものである。」


▽「一九〇〇年の写真でその主題ゆえに影響力のあったものが、今日ではむしろ、それが一九〇〇年に撮られた写真であるがゆえに私たちを感動させるという次第であろう。」
この段落の最後、「時間というものは結局はたいがいの写真を、およそ素人ふうのものであろうと、芸術と同列の高さにおくことになる」。


▽「写真の産業化の結果、……有効ではなくなったのである。」


▽「官僚主義と両立する……という推定である。」
次の段落とその次の段落まるまる。ウェブ上の写真サービスやインスタグラムなどで写真を撮る・見るということが、ますます日常的になってきた現在と当時を比較してみるのもよいでしょう。参考までに「アーカイヴ」に関連する資料を。
※オクウィ・エンヴェゾーがキュレーティングしたdocumenta 11
http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~fujikawa/02/bs/d11/documenta11.htm
http://www.shift.jp.org/ja/archives/2002/02/documenta_11.html
http://art-u.blog.so-net.ne.jp/2002-07-20
Documenta 11. Kassel, Germany, 2002. Director: Okwui Enwezor
http://j.mp/MYb3aD  http://j.mp/MYbp0O
documenta 11 Impressions, 2002
http://youtu.be/muolWfuVfAI
Okwui Enwezor『Archive Fever: Uses of the Document in Contemporary Art』
http://j.mp/MYbvp8
ジャック・デリダ『アーカイヴの病』
http://www.h-up.com/bd/isbn978-4-588-00947-1.html


▽「写真映像に支配された世界では、境界(「フレーミング」)はすべての任意のものに思われる。……他のどんなものとも隣り合わせにすることができる)。」
ジョン・ヒリアード(John Hilliard)
http://j.mp/1bChjvt
フレーム | 現代美術用語辞典ver.2.0
http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%A0
パレルゴン/エルゴン | 現代美術用語辞典ver.2.0
http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%83%91%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%82%B4%E3%83%B3%EF%BC%8F%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B4%E3%83%B3
モンタージュ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5
クレショフ効果
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%95%E5%8A%B9%E6%9E%9C


唯名論 Nominalism
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E5%90%8D%E8%AB%96
http://kotobank.jp/word/%E5%94%AF%E5%90%8D%E8%AB%96
※ティエリー・ド・デューヴ『マルセル・デュシャン―絵画唯名論をめぐって』
http://www.amazon.co.jp/dp/4588007017
著名な本ですが、読めていません。訳が微妙という説もあり。


▽「カメラは現実を原子的な、扱いやすい、不透明なものにする。それは相互連結や連続性を否定するが、」
むしろ、相互連結や連続性を可能にすると思います。もちろん、フィクショナルに。


▽「写真映像の基本的な知識は、「そこに表面がある。さて、その向こうにはなにがあるのか、現実がこういうふうに見えるとすれば、その現実はどんなものであるはずかを考えよ、あるいは感じ直観せよ」といってみることである。自分ではなにも説明できない写真は、推論、思索、空想へのつきることのない誘いである。」
“写真とは表象を持たずにレフェラン(指示対象)だけを持つ特殊な記号である。記号としての写真は、リアリズムともドキュメントとも関係なく、心理とも記憶とも関係がない。写真は、「撮るもの」からも「撮られたもの」からも独立している”http://j.mp/YVzG8d
“フランスの哲学者・記号論学者R.バルトは〈写真はコードのないメッセージである〉と定義した(《写真のメッセージLe message photographique》1961)。”http://kotobank.jp/word/


▽「理解は世界を見かけどおりに受け入れないことから出発するのである。理解の可能性はすべて否といえる能力にかかっている。」


▽「写真は現在と過去のわれわれの心的絵巻図の空白を埋めてくれる。」
制作者にとっては、写真を撮ること、写真を見せること、とも関連してくる話。


▽ジェイコブ・リース(Jacob Riis)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9
※画像検索
http://j.mp/RggLY5


▽チャールズ・ディケンズ
“作品(エッセイ・小説)を通しての社会改革への積極的な発言も多く、しばしばヴィクトリア朝における慈善の精神、「クリスマスの精神」の代弁者とみなされる。貧困対策・債務者監獄の改善などへの影響も大きかった。”
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%82%BA


▽「ブレヒトが明らかに指摘しているように、クルップ工場の一枚の写真は」
“A photo of the Krupp factory or the AEG tells us almost nothing about these institutions”
http://j.mp/Rghkky
ベルトルト・ブレヒト Bertolt Brecht
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%92%E3%83%88
クルップ Krupp
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%83%E3%83%97


▽「理解はそれがどう機能するかに基づいている。……物語るものだけが……」
やや、ソンタグらしさが薄れるふわっとした記述のように思われます。


▽「写真による世界の認識の限界は、……まねごとなのであるから。」
写真の無力さ。では、それを“機能”させるには?写真を見るものに“物語る”写真とは?


▽「写真では仮定としては理解できるものが黙しているというそのことが、その魅力でもあり挑発的なところでもある。」
この段落の前半の調子から変化。“仮定としては理解できるもの”が、写真を見るものの思い込みではないことが前提になっているのは、ちょっと疑問。写真のリテラシーがあると任ずる者にとって(ソンタグ?)魅力でもあり挑発的な写真は、ひょっとすると一般大衆にはややハードルが高かったりするのでは?


▽「美的消費者中心主義」「産業社会は市民を映像麻薬常用者に変えている」「もっとも抵抗しがたい形の精神公害」
強い調子の言葉が並んでいます。この段落の半ばあたりの記述も味わい深いですが、ちょっと読み取りづらくもあり。そして、実際に経験することと写真を見ることの等価性が語られています。
※ダニエル・J・ブーアスティン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BBJ%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3
※『幻影の時代―マスコミが製造する事実』(1964年)
http://www.amazon.co.jp/dp/B000JAF6VE
http://semi.natura-humana.net/2007/micromacro/genneinozidai2007.html
新装版も出ています。VIVOやプロヴォークの作家が当時読んでいた基本文献です。
加藤晴明講義:メディア社会論講義ノート ※読まなきゃと思いつつ読めてないリンク
http://openweb.chukyo-u.ac.jp/~hkato/katoharu/kougi-mdedia-society/info-sub/kouginote.html


ステファヌ・マラルメ Stéphane Mallarmé
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%A1


▽「今日、あらゆるものは写真になるために存在する。」
マラルメの有名な言葉のパラフレーズ
http://j.mp/RglcSx

      • -

>>>[読書会]ソンタグ+バルト+ベンヤミンを読む〔作家の視点から〕
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20140222p2