Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

[資料 2019-01-08]そもそも、“メディウムいじり系”(by 南方幹)のうち、アナログ(ケミカル)のものについても伝統的に大抵のことがなされている。

◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2016年08月21日 - Twilog

川村記念美術館サイ・トゥオンブリーの写真作品の展示を観ましたが、やはり普通のピクトリアリズムでした。トゥオンブリーの写真作品集はすべてチェックしていますが、その作品が優れていると思ったことは一度もありません。http://d.hatena.ne.jp/n-291/20091026p3

サイ・トゥオンブリの写真作品は、フェアなどで少しは実物も見てますし、絵画や彫刻も欧州の美術館でそれなりに見ています。著名な画家の手によるものだということをいったん括弧にくくれば、トゥオンブリーの写真作品もごく普通の実践に過ぎません。

ただ、サイ・トゥオンブリという作家の創作原理を考察するという意味では(今回の展覧会がそうなっているということではなく、鑑賞者がそれぞれ個々に自発的に考えるための参考になるという意味では)、意義のある展示にはなっているとは思いました。

まとまった量を見るとちょっと違ってくるのかなと思っていたものの、フレッソンプリントによるペーパーの肌理の扱いや像の滲み具合についての判断基準について理解できた(推測できた)ことはあったとはいえ、ことさらに持ち上げるほどのものとは

思えなかったというのが、やはり正直なところ。ピクトリアリズムでの実践や1980年代のポストモダン・フォトグラフィ保守派(表面的なテイストや擬古典調〔こちらは技法もモチーフも含め〕)など、過去の歴史を忘却し、なかったことにしてしまえば

“肥えていない舌”にとっては、美味しいものなのかもしれず(作者はブランドとして確立しているわけですし)。前々回のWSからPhaidonの『Photography Today』を捲り始めましたか、ウォーホル、リヒター、ポルケなどの項目

があることは確認してますが、トゥオンブリの項目はおそらくないのではないかと思われます。それはさておき、今回の展示をきっかけに、将来的にポルケの写真作品の展示などが川村記念美術館で開催されたりすることを個人的には期待したいと思います。

https://twilog.org/n291/date-160821/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2016年08月23日 - Twilog

訂正。『Photography Today』にはポルケの図版掲載はなしでした。ただ、Michael Werner Kunsthandelでも1970年代のポルケの写真作品に絞った個展も行われましたし、昨今のメイキング・フォトの流行も

あって、必ず包括的な再評価がなされるのではないと思います。WSでは https://twitter.com/n291/status/426032821837127680 の2冊を紹介していますが(さらに2冊買い足し予定)、参加者の方は、「横田大輔さんって?あれっ?あれれっ?」となったり

もします。そもそも、“メディウムいじり系”(南方幹さんいわく)のうち、アナログ(ケミカル)のものについても伝統的に大抵のことがなされているでしょうし、それが作品の内容に結びつかず、表面的なエフェクトに過ぎないのであれば、その必然を

どのように言い繕ったとしても、アートではなく、クラフトだと判断されても仕方がないように思います。手法を内容とする強固なコンセプトがない限り。/ Roger Parry (1929年頃) https://www.photo-arago.fr/CorexDoc/RMN/Media/TR14_MD5/2/c/a/b/09-539514.jpg

Maurice Tabard (1935年) https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/736x/ee/fb/33/eefb339724e8adeb2751bf27ca06df4d.jpg  Hippolyte Bayard (19世紀) https://www.photo-arago.fr/C.aspx?VP3=CMS3&VF=GPPO26_3_VForm&ERIDS=2C6NU0OBY4CR:2C6NU0O5O7X1:2C6NU0WJHVFG

Pierre Cordier (1950年代) https://www.google.com/search?q=pierre+cordier+chemigram&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwigoIfKzNXOAhUGI5QKHbTVBe4Q_AUICCgB&biw=1436&bih=803 Tom Drahos (1980年代) https://www.google.com/search?q=Tom+Drahos+Jain&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwjh8KPxzdXOAhWGFJQKHWzEBxIQsAQIHQ&biw=1436&bih=803

Nancy Wilson-Pajicのサーカスなんかは初期の横田大輔さん的。1980年代のポストモダン擬古典写真。ゴム印画法。http://pajic-wilson-pajic.pagesperso-orange.fr/pajic-wilson-pajic/Problematics_Image.html

2015年に東雲で開催された「hyper-materiality on photo」とかも、Susan Rankaitisなんかを知らないとやってしまう系の学生っぽいことをやってたり。http://twilog.org/n291/date-150325/allasc

Susan Rankaitis https://twitter.com/n291/status/581068336030568450 Mariah Robertson http://twilog.org/n291/search?word=Mariah%20Robertson%20&ao=a https://youtu.be/oBhihQnt3P0

Michael Flomen https://www.google.com/search?q=Michael+Flomen&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjm6YKl0dXOAhWDF5QKHQZTD1EQ_AUICCgB&biw=1436&bih=803 Ryan Foerster https://www.google.com/search?q=Ryan+Foerster&espv=2&biw=1436&bih=806&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=UwAUVYXNF6HSmAXsiIGwBA&ved=0CCQQsAQ /ということで、『美術手帖』の最新号を購入しましたが、まだ巻頭のインタビューと

星野太さんのテキストを読んだ状態。横田さんの「Untitled from Color Photographs」はフレームの扱いも含め、抽象画像としては完成度が高いという印象。それ以降のページをざざっとめくってみたものの、全体としては

方向性は違えども、写真2.0 http://twilog.org/n291/search?word=%E5%86%99%E7%9C%9F2.0&ao=a… とレベルとしてはあまり変わらないかもしれません。大森俊克さんの論文では、やはり「The Photographic Object 1970」に言及。

トゥオンブリの写真作品展にて、ある方の感想。https://twitter.com/Tts8oUILzmkr5Dc/status/729187045873057792 WSでも紹介する『Don't Think Just Shoot』https://shop.lomography.com/en/don-t-think-just-shoot-book も見ておくと良いでしょう。

https://twilog.org/n291/date-160823/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2016年10月02日 - Twilog

美術手帖は、その後まったく読めていない状態。参考までに大竹伸朗さんの「網膜」シリーズが表紙のWAVE(25号・1990年)と濱谷浩さんの実験作品(制作年代は要調査。ビニールを撮影)が表紙の『潜像残像』新装版を貼っておきましょう。

https://twilog.org/n291/date-161002/allasc


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以下、付記的な自己RTより。


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2016年08月23日 - Twilog

“写真のリプリゼンテーションを批評的に扱うかに見える2D≒3D作品、騙し絵的作品”https://twitter.com/n291/status/580659809856331776https://twitter.com/n291/status/580660961146621952… の件、ワークショップでは個人講座のMさんが某コンペでグランプリを競っていたときのことを思い起こします。

展示前にいろいろ話をしたなかで浮上して来たのが、同じく最終選考に残っていた福田晋也さんの作品。http://j.mp/19TNtb5 Mel Bochnerのある試みなどもふまえているのかどうか?とか1960年代作家の話題なども出ましたが、展示さえきれいに決まっていれば、

審査の流れ次第では強敵かもという話の流れになりました(しかし、コンクリート・ブロックをやや安易に使うなど、インスタレーションの微妙さも影響してかそうはならず)。しかし、このときに話したのは、もっと重要なことで、こうした3次元を2次元化する写真のイリュージョンを批判的に扱った場合

(現在ウェブにアップされている作品は選びも変わって、18 / 19のテキストも適切なものにはなっていると思いますが)、写真を中心に作家活動を続けていったときに苦しい状況に置かれてしまうかもしれないということでした。「写真はイメージです」「写真は厚みを持たない影にすぎない」といった

ことは小学生でも理解していて、そのうえで写真を“社会的”に運用していますよね、みたいな言わずもがなの前提はさておき、それを批判するような作品を一度つくってしまうと、もし作家としての一貫性を貫くのであれば、今後、写真(平面)のリプリゼンテーションをノーマルに使うような試みはできなく

なってしまうのではないか?という。それは地味なことなのかもしれませんが、他のどのようなメディウムよりも短時間で精緻な似姿を得られるということ、これを利用できなくなってしまうと(ある時期、安易に流行に乗ってしまったがために)、実は結局のところ、写真でできることの幅を狭めてしまいます

阿部和重 中原昌也『シネマの記憶喪失』という本があるようです。その書名の意図とはズレてしまうのかもしれませんが、言い換えれば、昨今の“写真の記憶喪失”といった状況はかなり深刻なことのように思われます。もちろんそれもまた、相も変わらずの、「悪い場所」の変奏なのかもしれませんが。。

A:いやあ、写真を使って造形行為を行っているんです。B:えっ、それって世の中のモードが変わったら、たとえば京都系の総合的な美術教育を受けている人ならともかく、やり続けていくことのできる場所ってあるの?A:そのときはそのときのはやりに乗ります。B:なるほどねー。そうかー。うんうん。

中森康文さん関連だと、WSでも何度か使ったこちらも。http://twilog.org/n291/search?word=Utopia%2FDystopia&ao=a しかし振り返って考えてみると2000年代の抽象写真の再考があり、その後のブームを経た、“写真版ゾンビ・フォーマリズム”って、一体いつまでやってるんだろう?という。これも応仁の乱問題?

※「抽象写真」関連 http://twilog.org/n291/search?word=%E6%8A%BD%E8%B1%A1%E5%86%99%E7%9C%9F&ao=a ※※2014年02月11日 - Twilog http://j.mp/1EMT0YC

簡単な話。アイデアは無限。http://j.mp/15zC2BV これがイメージ・メイキング系としては視覚的魅力に欠けるというのであれば、http://j.mp/15zG0KL http://j.mp/1EMVbv3 これくらいで仕上げればOK。これまた簡単。

ヴィジュアルに内容=意味を充填する能力がなければ歴史的には消えるのみ……だと思うのですが、果たしてどうでしょう。たとえば、写真平面とその慣習化された表象と知覚の権力みたいなことでいえば、http://j.mp/1EMXbUi もひとつのアイデア。試しただけなので仕上げは雑。

木村伊兵衛賞に典型的に見られるように、画一的な一発芸の使い捨て写真集、他ジャンルならとっくに見透かされるであろう、あざといエフェクトに頼った写真集が、馬鹿の一つ覚えの「リアル」の名の下に流通する批評不在の中で”清水穣さん(2009年)http://j.mp/1OKnhiI

【資料 2013-09-07】http://j.mp/1OKo4Aq

いわゆる“メディウムいじり系”のうち、物理的なコントロールによるものとしては、映像も含めれば、スタン・ブラッケージの1960年代(ダイレクトペインティングやフィルムの腐食)、モーリス・ルメートルの50年代(ダイレクトペインティング他もろもろ)、

ノーマン・マクラレンらの1930年代(ダイレクトペインティング)という実験映画での試み、写真で著名なのは荒木経惟「偽ドキュメンタリー・ハロゲン化銀汚染写真展:蝉の声」(1973年)やジグマー・ポルケの1960年後半以降の写真での営み(海外の事例については細かくは未調査未整理)

などがあり、このあたりは最低限知っておく必要がありそうです。Stephen Gill『Buried』(2006年)、小山泰介『Melting Rainbows 』(2010年)、横田大輔の近年の展開などもありますが、例えば横田さんの作品が、いきなり森山大道『写真よさようなら』に

接続されて、だから“これはイイ”などとなってしまうのは、どういうことなんでしょうか?仮にそれをそのようにして持ち上げるのだとしても、荒木経惟さんの腐食作品の方が近いでしょうし、大正期のピクトリアリズムに言及しないのだとしても、小山穂太郎さんなど1980年代の世代や、イメージで

いえば、進藤万里子さん http://twilog.org/n291/search?word=%E9%80%B2%E8%97%A4%E4%B8%87%E9%87%8C%E5%AD%90&ao=a なんかもいますし(森山さん直系)、日本の写真を海外に売り出していくにしても、あまりに杜撰というか、ある作家がメディア的に注目されているのを入り口に、それによって再度歴史化がなされ、みんなが利益を得られるように

することも可能であるのに、それをせず、特定の浅い文脈を一時的に作り出して次々と消費していくのは、本当に残念というか。“写真の記憶喪失”問題は相当に深刻であるように思われます。そもそも、「写真はアートになった」などとかしましく喧伝されたのは、日本では1980年代では?すでに忘却?

[#291WS 参考資料]Schmelzdahin(シュメルツダーヒン)の1980年代 http://twilog.org/n291/search?word=Schmelzdahin&ao=a ※http://j.mp/1YSWFPL ※※埋めおよび腐食系。スティーブン・ギルとも比較してみましょう。

[#291WS 参考資料]トニー・コンラッドの「スキヤキ」(1973-74年?)https://iffr.com/en/2005/films/sukiyaki Tony Conrad: 7360 Sukiyaki or Sukiyaki http://d.hatena.ne.jp/n-291/20140630p15 ※日本ウケしそう?

https://twilog.org/n291/date-160823/allasc