Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

[資料 2019-03-18]大橋仁問題〜「夢見がちで現実と向き合うことのないある種の美大生あるいは美大教員の“べき論”(同調圧力であったりもする)などに、安易に釣られないこと」

◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2015年01月13日 - Twilog

私自身は、そうした動きについては賛同しますが署名については保留という立場。http://j.mp/1tZFGeX いずれにしても写真美術館の石田哲朗さんなら、しかるべき的確な対応をされるでしょう。次のフェイズに入ったということで、ここで考えるべきは大橋仁さん的な鈍さは、

まったくもって氷山の一角であるということ。彼のような幼稚な社会・世界認識でもって、芸術・表現に取り組んでいる人々が、日本にはまだまだ大勢存在しているので、そのことをよくよく考えていく必要があるでしょう。彼は彼で批判されるべきなのでしょうが、それで溜飲を下げていても仕方ありません。

現実の記録・複製が基底条件となる表現にとっての要点は明らかなので、大橋仁問題によって自身の活動が限定されるなどと恐れるべきではありません。むしろここで膿を出し切っておくべきだと思います。https://twitter.com/n291/status/548467240769576961 https://twitter.com/n291/status/551061432045826048

言いたいことはまだまだありますが、とりあえずここまで。写真家(作家というよりもカメラマン)の対象(被写体などと言ったりもする)へのオリエンタリズムもさることながら、写真(家)を評する人々あるいは美術の世界からの、写真家へのオリエンタリズムが問題なのも以前からよく話してきたこと。

“未開人”がより劣位の“未開人”を求めてしまうような態度。それをよしとし看過するような空気の蔓延と構造。

RT @nisougi: 大橋仁さんのブログ良かった。表現?衝動として全くその通りだと思った。

二艘木洋行さんのツイッター・タイムラインより。この一連の流れ、いろいろな観点からの読みが可能で、考えさせられます。

ハンナ・アレントのプチプームもあってか、「凡庸なる悪」というフレーズを耳にする機会も増えていると思いますが、ひたすら通俗的なくだんのカメラマン(フォトグラファー?)は、「凡庸なる凡庸」の典型だと言ってもよいかと思われます。では、それに喝采を贈る、もともな近代も経由しておらず、

市民社会もまともに機能していない国において陶冶されてきた東アジアの一地域の人々は、一体如何なる存在なのか?ということ。それは他人事ではありません。我が身の何処かにも深く染み付いています。この社会にしてこの水準(政治・文化ほか様々な領域において)というのも、そりゃそうだろうという。

地球くんの中の人にfavされた https://twitter.com/n291/status/554770984465494016 ので付け加えると、“写真(家)を評する人々あるいは美術の世界からの、写真家へのオリエンタリズム”には、自覚的であれ無自覚的であれオリエンタリズムアウトソーシング(間接化)の問題も含まれるでしょう。

こういう笑い話がある。そして実際に体験したスイスの街(アートが認められている社会)でのやりとり→“どこから来たの?”“東京”“何やってるの?”“アーティスト。AIRで5月頭から滞在してます”“なるほど。じゃあどんなものを作っているの?”“写真とか映像とか”“具体的には?”(続く)

日本国内でのやりとり(やや誇張あり)→“何やってる人?”“アーティスト”“えっ?(半笑い)”“いや、作品つくったりとか”“てことは、ミュージシャン?(そんな風には見えないけれど。笑)”“いや、美術家です”“はぁ?絵とか描いてる人?”“いや、写真とか映像とか”“えっ?(苦笑い)”

「日本の社会でアートそしてアーティストの存在がもっと認められるべき」といったふうなことを叫ぶ人々がいる。しかし、このべき論が詮無きことは明白。それが認められる社会を作っていく、その価値が的確に認知されるような文化を醸成していくことが肝要なのであって、そうすべき、ああすべきなどと、

言ってみたところで意味はなく、仮にロビイングなり何なりで政財界に手を回して(もちろん一方では今後より一層必要不可欠の事柄)、「アートを認めよ」といったお題目を掲げようとも、人々が心からそう思う、ふるまうことにつながらなければ意味がないわけで、たとえば強圧的に他者を縛るのであれば、

それは現政権の方向性ともパラレルなのでは?ということになるでしょう(e.g.国旗及び国歌の件)。きちんと近代化をとげる、市民社会を機能させる(“市民”という言葉には特殊な意味はないのですが、それが左翼臭いのであれば単に“社会”と言ってもよい)、ことなくしてアートが認知される時代が

日本に来るなどと、ゆめゆめ思うべきではない。と、以前から考えています。夢見がちで現実と向き合うことのないある種の美大生あるいは美大教員の“べき論”(同調圧力であったりもする)などに、安易に釣られないことが肝要。アートの価値など所与のものではない、といった諦念も大事だと思います。

小室直樹bot @komuronaoki7

近代国家は、伝統主義の打破から始まる。習慣、制度、権力等は社会的事実ではなくて、人間の行為を以って選択し得ると言う思想から始まる。丸山眞男氏は、これを作為の契機と呼んで特に重視する。作為の契機こそ、近代デモクラシーの淵源である。(『消費税は民意を問うべし』196頁)
https://twitter.com/n291/status/554988829199708161

作為の契機の不在はさておき、もちろん“アートの価値”を個人的に信仰するのはアリでしょう。しかし、それを他者にも私と同じように信仰せよなどと言う、あまつさえ信仰しないのはおかしいなどと非難するような態度は、それほど広く賛同を得ないものである、といった認識も必要になってくるでしょう。

美大でもビジネススクール的教育を行うべき、といったツイートがタイムラインに…しかし、美大でインストールしておくとよいのはそうしたものではなく、むしろバカロレア的なものなのでは?ビジネススクールで学ぶような事柄をアーティスティック(批判的)に腑分けすることも可能になるわけですし。

ビジネススクールでの教えを無批判に受け入れれば、激烈な経済至上主義一直線といったことにもなってしまうかもしれず、いやいやそんなことを教えようとしたわけではないんだなどと弁解してみたところで、その意味を学ばず形式のみを反復しがちなこの国においては、残念な事態を招くばかりなのでは?

関係性の美学の作家の一人であるリアム・ギリックがあのような作品展開をしている背景には、ゴールドスミスの多様な教育(文化人類学、デザイン、演劇、コミュニケーション学といった人文社会学系の授業が履修可能)があるのではないか?といったことが大森俊克さんの著書にも記されていたと思います。

あの販売戦術は以前同業者であった者としては功利的に考えれば賞賛に値する見事なものですが、シンプルに考えてみましょう。表紙を見れば普通は荒木経惟さんが『これが現代アートだ。』という大部の写真集を上梓したのだと受け取りますよね。<@graturn 帯文を書いた人も無関係ではいられない

https://twilog.org/n291/date-150113/allasc