◇ 批評? - FMN SOUND FACTORY
晩飯を食べに行った処で何気なく漫画雑誌を見ていると、映画評論家の大御所(双葉十三郎だったけ?)のインタビューがあったんで読んでみた。
その中で周防監督の映画が好きだ、と言って「なんだって”シコふんじゃって”まで見ているんだから」と自慢していた。これは、通常の一般人はその存在も知らないだろうものまで(本当はそうじゃないのにね)自分は見ている、という自慢と、彼の中では”シコふんじゃった”は自分にとってそもそも見る価値のないモノであったけどそこまで自分は見ているということの、これまた自慢が満載の発言だと思った。
批評家の役割とは一体なんだろう?批評とは自分の曖昧な審美眼を自慢するためだけのモノでもないし、さらにまたどうでも良い(としか思えない)データを提出するだけのモノでもないはずだ。
音楽批評になんの期待もしなくなったのはFilamnetBOXが全く音楽ジャーナリズムから無視されたことで決定的になったけど、それ以前にもあった。
その映画評論家の発言と同様の、音楽の本質に迫るのではなくて、自分がいかに確かな耳を持っているかどうかをことさら表明するだけだったり、何年にライヴがいくつあったとかメンバーが誰と交流があっただとかのどうでもいい情報の数をきそうだけだったり。
http://news.fmn.main.jp/?eid=256349
Bushdog's Tumblr(http://bushdog.tumblr.com/)経由。
◇ 音楽評論家? - FMN SOUND FACTORY
mixiにとある自称(一緒に仕事したというミュージシャンの名前が羅列してあった、が評論家がミュージシャンと一緒に仕事、というのがそもそも?)音楽評論家がカヒミさんの新しいDVDが見たいからマネージャーさんに言ってサンプル盤もらおう、って。
ばかじゃないか!そこそこええ歳こいてるのに。
欲しかったら買いなさい。人見記念講堂でのライヴが二階席でいまいち音が届いていなかったからこれは欲しいな、って欲しかったら買えって。音が届いてまいが届いてようがそんな奴には意味がないっちゅの。
大きな勘違い。
評論するということがどういう位置にあるかまるきり分かってない。
ただでもらうってことは宣伝の一環としてもらうってことか?
ならば評論ではないだろう。宣伝屋だ。宣伝屋ならば自分に頼めばこれこれこういう効果があるから、もしくはこれこれこういう努力をいたしますから宣材としてサンプルを下さい、と言うのが筋だ。
評論したいからただで下さいっていうなら、それも図々しい話だ。ただ聴きたいだけなら欲しいなら自分の金で買え。少なくとも音楽で飯を食っている自称プロならば、お金を払ってCDやDVDを買っているふつうの音楽ファンに対する、それが礼儀だと思う。
日本で音楽評論家というべき人は数人しかいないと常々思う。
評論するということの根本的姿勢を自ら問い続ける努力をしない人間が自らを「評論家」と自称していることがどれだけ音楽の世界を歪めているか。サンプル下さいって自称評論家からもし言われたら(幸運なことに請求するような無礼な人には出会ってない。聞いて欲しい人、宣伝効果の期待できる雑誌にだけサンプルを送っている。)ニコニコ笑って「で、あなたにあげてどういう効果が期待できますか?」ってはっきり聞くけどね。
http://news.fmn.main.jp/?eid=540845
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>>>「対岸の火事」ではなく「他山の石」「前車の覆るは後車の戒め」
◇ ひどかったなーと良かったなー。 - FMN SOUND FACTORY
実名をあげて非難するのもどうかと思うけど、作者本人(作者という言い方をしてもいいかどうかも迷うくらい作品性は皆無)が平気で名前を出しているのだから良いだろう。
最初に作者の写真集からのスライド。sexというタイトルらしいけど海や波のそれらしいモノクロ写真撮っただけでとりたててどうということもない。
その後は動物と食べ物の写真がほぼ交互に出てくる写真。未発表と言っていたけど、これ、発表するつもり?まるで夏休みの写真日記。子供の絵日記のほうがまだあざとく巧み。
ここで出ようかとおもったけど豊田道倫見たさに我慢。最後がもう本当にひどい。友人の結婚式の写真らしいけど、これを「作品」と呼ぶ神経を疑う。
スライドを上映しながら喋ります、ということで説明を加えるのだけど、「右が新婦の家族でー、左が新郎の家族です。」
あほかー!俺になんの関係があるんじゃー、と思ったけど、せっかくお金を払ったし、見ず知らずの人に友人の結婚式のスナップを有料で見せる、というとてもおかしな状況を居直って楽しもうかと思ったけど、無理。
豊田道倫登場までの間、会場を脱出しました。極私的な写真は作者本人を感じさせる事もできるし、作者本人に迫ることが出来る写真ならば世界そのものにも迫ることも出来うる、とは思う。
でもこの女の子(と敢えて言います。写真好きな女の子)は対象物と自分の関係を見据える努力を全く放棄している。
友人の結婚と自分との関係が自己完結してしまって、それを対象化できていないから他人には何のことか分からない。
スライドとはいえ殆どの写真が色がぼけ気味だったのも気になる。スライド・プロジェクターの性能のせいかもしれないが、そんなことはこちらには関係ない。スライドで出来ないならば他の手段を考えるべき。
ほんとうにひどかった。
終わって拍手があってまたビックリ。賞賛する要素がどこのあるの?怒っていたのは俺だけか?俺には分からない良さがどこかにあったのか?
数年ぶりでみた豊田道倫は大変良かった。なんというか、失礼な言い方だけど、声が良いわけではない、取り立てて曲が良いわけではない、歌がうまいわけではない、だけどなぜか引きつけられる。
本人も言っていたけど魔球ですね。歌詞に出てくる言葉が、どう言ってよいのか、「肌肌しい(そんな言葉はないけど)」感じがする。肌と肌をくっつけて伝えられているような。
なんとなくエロチックな印象になってしまうのはそのせいか。スライドしていた女の子と違い、とても極私的なことを一回自分から突き放して対象化して、それからまたさらに自分の内に納めてしまう、ということをすらりとやっているような気がする。
とても映像的。
アンコールでスライドショーと一緒にやりますと言われて、そんな、とんでもない、と思って出ました。
豊田道倫の歌だけで充分に映像的なのに、とても貧しい写真が添えられると台無しになると思って。