Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

「モダン・フォトグラフィ」受容の重層性──『フォトタイムス』誌に見る言説空間と写真実践── 高橋千晶

 こうした背景のもと、大正13[1924]年にオリエンタル写真工業宣伝部内フォトタイムス社は、月刊写真雑誌『フォトタイムス』を創刊する【図1】。編集主幹の木村専一(1900-1938)は、昭和5[1930]年に「新興写真研究会」を設立したことから、「新興写真」の名付け親と目されるが1、『フォトタイムス』編集においては、ラースロー・モホイ=ナジ(Laszlo Moholy-Nagy:1895-1946)や、マン・レイ(Man Ray:1890-1976)など新進気鋭の欧米作家の動向を、翻訳論文や写真図版を通して多数紹介することによって新機軸を打ち出した。こうした事例から、『フォトタイムス』は、『アサヒカメラ』(朝日新聞社、昭和2[1926]年創刊)、『光画』(聚楽社、昭和8[1933]年創刊)とともに、新興写真運動を語る上で不可欠の写真雑誌の一つと見なされている。たとえば飯沢耕太郎は、「新興写真研究会」と『フォトタイムス』における木村専一の活動が「自分たちの方法を模索していた日本の写真家たちに、明確な指針を与えるものであった」と高く評価し、「『新興写真』の時代のはじまりを告げるもの」と本誌を位置づける2。同様に、西村智弘も「新興写真の誕生」を語る際に木村専一と『フォトタイムス』に言及し、「新興写真運動が生まれる上で木村とこの写真雑誌が果たした役割は大きかった」と指摘する3。
 しかしながら、1930年前後の『フォトタイムス』誌面を見ると、必ずしも本誌が「新興写真」という概念に首尾良く折り込まれるわけではないことに気づく。むしろ、口絵掲載の写真作品や投稿記事の中には、新興写真が繰り返し否定してきた「芸術写真」を彷彿させる事例も散見され、『フォトタイムス』という場が、相反する要素を貪欲に吸収・消化した複雑なメディア空間であったことが浮かび上がってくる。このことは、1930年代に日本写真界を席巻した「新興写真」と呼び慣わされる思潮が、必ずしも明確に定義できるものではなく、複数の方向へと分岐する流動的な動きであったことと無縁ではない。
 問題はそれだけではない。『フォトタイムス』創刊の時代、つまり大正末から昭和初期の写真界は、明治から続く老舗の写真雑誌『写真月報』や『写真新報』に加えて、福原信三の『写真芸術』(写真芸術社、大正10[1921]年創刊)、高桑勝雄主筆の『カメラ』(アルス、大正10[1921]年創刊)、淵上白陽主幹の『白陽』(白陽社、大正11[1922]年創刊)、中島謙吉主幹の『芸術写真研究』(アルス、大正11[1922]年創刊)など、主としてアマチュア写真家を読者層とした写真専門誌がしのぎを削った時代であった。大正後期の写真界は、「芸術写真」を標語とした写真雑誌創刊ブームの渦中にあったと言える。このブームにやや遅れて誕生した『フォトタイムス』は、創刊当初からアマチュア写真家のみならず、「プロ」の写真家も読者層に取り入れることを明確に意識し、従来の写真雑誌と異なる路線の開拓を目指していた4。本誌が先行する競合誌との差異化をはかるために、「モダン・フォトグラフィ」というモードを戦略的に取り入れたと考えることはそれほど難しくはないだろう。
 以上を踏まえて、本稿では、1930年代前後の『フォトタイムス』誌掲載のテクストと写真イメージに注目することによって、「モダン・フォトグラフィ」受容の重層性を明らかにし、モードとしての「モダン・フォトグラフィ」――国際的であること/同時代的であること/社会性があること(プロフェッショナルであること)――の戦略的利用の様相を浮き彫りにすることを課題とする。

第2章第3節 板垣鷹穗の「新しい視覚」
 新興写真においては、運動を牽引した論者が必ずしも写真家だけではなく、板垣鷹穂や村山知義など、同時代の批評家や芸術家が中核に位置していたことも、それまでとは異なる側面であった26。板垣は自ら写真を撮影・発表したわけではないが、その理論を実践するために堀野正雄や渡邊義雄を協力者として、いわゆる「グラフ・モンタージュ」を共同制作する。「グラフ・モンタージュ」とは、主に雑誌誌面での写真の発表形式の一つであり、あるテーマを複数の写真の組合せによって、視覚的に報告する働きを持つ。『フォトタイムス』では、こうした写真の発表の仕方を「グラフ」と呼んで他の記事と区別しているが【資料参照】、明確な線引きはなされていないようである。いずれにしても、堀野正雄が連載した「新しきカメラへの途」は、後の「グラフ・モンタージュ」の萌芽とみなせる取り組みであり、板垣の指導によって堀野が自らの路線を開拓していく様がはっきりと読みとれる。
 ここでは、板垣が自らの機械美学を写真によって実験した著作、『優秀船の芸術社会学的分析』(天人社、1930年)刊行に先立って、『フォトタイムス』に掲載した「機械的建造物の乾板撮影」と、板垣の指導によって堀野が撮影した瓦斯タンクのシリーズを取り上げて、板垣の「新しい視覚」の内実を探ることにする。

26  村山知義は昭和2[1926]年から『アサヒカメラ』誌上でマン・レイやエル・リシツキーの作例に言及しながらフォトグラムやフォトモンタージュを「写真の新しい機能」として紹介している。新興美術の立役者であった村山の関心は、美術作品と写真の共鳴にのみ向けられたわけではなく、正確な再現性に写真の使命があることを指摘し、新興写真が掲げた理念を共有していた。「写真は先づ第一に迅速正確な報導者であり、再現者でなければならない。此の使命と可能性を忘れて古い芸術手段である所の絵画の真似をしやうとしたのが、所謂「芸術写真」であって、これは誤った道である事は、最早言ふ迄も無い。」『アサヒカメラ』昭和5[1930]年4月号、403頁。

http://www.kyoto-seika.ac.jp/researchlab/wp/wp-content/uploads/kiyo/pdf-data/no38/takahashi_chiaki.pdf


ドイツ工作連盟主催「Film und Foto」展(一九二九年)と「独逸国際移動写真展」(一九三一年) : 新しい「展示システム」をめぐって(第六十二回美学会全国大会発表要旨) 江口みなみ
http://ci.nii.ac.jp/naid/110009480057


◇ 独逸国際移動写真展 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E9%80%B8%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%A7%BB%E5%8B%95%E5%86%99%E7%9C%9F%E5%B1%95