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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

関西体験参加型作品の流れを概観する

関西特集
関西における体験参加型作品の流れを概観する
奥村泰彦(和歌山県立近代美術館学芸員

最近しばしば目にするようになった「体験型」「参加型」とうたわれる作品であるが、その定義はと言われると定かではない。そもそも作品というものは、ある時空において、そのものと対面するという体験において成立するものであると考えるならば、作品に対して「体験型」という形容を与えるのは同語反復であるし、見る者が積極的に参加することなく味わえる作品などというものも成立するはずがない。にもかかわらずこのような表現が成立する背後には、目で見るという行為が、主体的なものでありながらも、その能動性を意識しにくいため、ともすれば積極的な行動と認識されないことがあるだろう。基本的に視覚によって成立する造形芸術が、その視覚への依存ゆえに、見られがたきものとなる皮肉な状況が存在するのである。 コンピュータに代表される機械技術の発達にともない、相互応答型のコミュニケーションが実用性を帯び、キャッシュ・ディスペンサーからゲームにいたるまで、さまざまな領域に応用されて日常生活に浸透したことは、視覚のみによる情報の往還に立脚する作品の鑑賞を困難なものにする傾向に拍車をかけている。

「体験型」の作品というと、しばしばそれ自体が動き、また見る者が動いたり動かしたりという身体的な行動による参加を要請するものであるが、視覚以外の感覚にも訴えようとする作品の増加は、上述のような日常的な状況の反映でもあるし、また作品へのより能動的な関わりを惹起するための戦略として理解することもできるだろう。また、個々の作品に対面し鑑賞するのでなはく、展示空間と身体的に関わることを前提としたインスタレーションという方法には、体験という側面があらかじめ組み込まれているとも言えよう。
恐らく日本で最も早くに試みられた「体験型」作品の一つである田中敦子の「作品(ベル)」は、空間を直接認識するにはどうすれば良いのかという、作者の問題意識から生まれたものであった。観客がボタンを押すと、ベルの轟音が順次遠ざかり、あるいは近づき、それによって一定の空間の広がりが把握される。その轟音は観客に、自分がこの音の原因となっているのだというほのかな罪悪感にくるまれた快感を、副次的にもたらすものでもある。田中が参加した具体美術協会においてもそうだったが、今日ではパフォーマンスと総称される、芸術家による直接的な行為が作品として試みられる中で、身体的行為と連動した作品も登場してくる。同じ田中の「電気服」は、舞台衣装として構想されたものであった。
1970年の大阪万博の開催をピークとして、1960年代に数多く制作された「体験型」の作品は今日ほとんど省みられないし、「環境芸術」「インターメディア」などという言葉が流行したこともほとんど忘れられている。そういった作品は写真で見ても理解しがたく、実際に「体験」しなければ意味がないため(この点において「体験型」という形容が全く誤ったものとも言い切れない)、失われてしまえばほとんど語ることができない。

80年代の「具体」再評価により、先の田中敦子をはじめ、嶋本昭三、松田豐、村上三郎吉田稔郎、ヨシダミノル等々の作品を実見する機会が得られたことは、「体験型」作品の隆盛にも、なにがしかの影響を与えている思われるが、その検証は今後に譲らねばならない。
さて、筆者の課題とされた、現在に至る流れのようなものを概観する以前に、出発点のところで指定の文字数を使い果たしてしまったが、80年代以降の気になる作家たちを若干あげておこう。
京都アンデパンダン展において、1983年から始められた林剛+中塚裕子のインスタレーションは、京都市美術館の広い一室全体に展開することで、そして《court》というその主題によって、作品に観客を巻き込んでしまうものであった。同じく、アンデパンダン展で一室全体を使った作品で、ハイパーカードを先取し現実化したような空間へと展開した小杉美穂子+安藤泰彦の作品は、実際にハイパーカードにも制作の場を見いだしていった。
藤本由紀夫は、オルゴールをはじめとしてありとあらゆる音の出る素材を用いて、音響空間を構成している。昨年からは、西宮市大谷記念美術館での毎年一日だけの展覧会(今年は6月13日の予定)という意欲的な企画で、新しい試みがなされている。

中原浩大は、自分自身の存在と世界との関係を問うことから、必然的に体験を要請する作品を制作している。また、山崎亨の作品は、観者あるいはむしろ作者自身と関係を問い掛けるなかで、押すとか回すなどの行為を内在させる結果となっている。森村泰昌+山崎亨+近藤滋による《彫刻コスチューム》にもつながる姿勢であるが、これは一言では形容しがたい代物である。同じく、まずは作者自身が搭乗して使うという生活上の必要から生まれてきたとされる、ヤノベケンジの粗雑さを偽装した一連の作品は、作った人間が芸術大学を出ていたからとか、画廊や美術館で発表されたからという皮相な局面を蹴倒して、「作品」と呼んでやらなければほかにどうも把握のしようのない、のっぴきならなぬ存在物である。DUMB TYPEについて、筆者は残念ながらほとんど実見していないので、名前を挙げる必要があるだろうと思うだけにしておく。松井智惠と石原友明によるミッション・インヴィジブル(5月13日まで新装なったGallery KURANUKIで展示されている)は、トラックボールの操作を介在させることによって、作品とそれを見るという行為を意識に上らせる装置を発表している。
ごく機械的な自動演奏機からデジタル機器まで用いながら、さまざまな情報処理を作品として提示する吹田哲二郎。光学的な装置を使い、視覚環境の変化に対する身体の反応を作品化している黄瀬郷。メディアというより小道具を使って、感覚器官を惑乱することによる身体の狼狽を作品として体験させる徳田憲樹。改造したシトロエンによるドライブから発する音響を加工し、ドライブ共々体験させるログズ・ギャラリー等々、「体験的」と評しうる要素を有する作品の制作者はほかにも多いが、それぞれ問題意識のありかは千差万別であり、むしろ「体験」の質を問い掛けるものとなっている。
これだけのものが、継承されるでも発展するでも展開していくでもなく、なんとなく出てきてしまうように見えるのが、関西的なのかも知れない。

http://web.archive.org/web/20120113014036/http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/nmp_j/feature/0401/okumura.html