Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui http://fknb291.info/

蓮實重彦《言葉の「権利」について》より

「権利」なしに書くものたちが期待するのは、もっぱら「才能」である。であるが故に、そこでは退屈さとめぐりあうことしかないだろう。あらゆる人にほどよく備わっていたりいなかったりする言葉の「才能」の分布が、詩の世界にも等しく認められるというだけのはなしだからである。いっぽう、松浦寿輝は、「才能」などには背を向け、断固として「権利」によって書く。それが育ちのよい不遜さとでもいうべきものとなって、ある種の孤立を彼に課すことにもなるだろう。だが、いうまでもなく、読む感性をいやおうなしに刺激するのは、「権利」によって書かれた言葉に限られている。

「才能」で言葉を綴ろうとするものたちに欠けているのは、記号としての単語なりその連なりに向けて、音としては響かず、文字としては瞳に映らぬささやかな記号を差し向けようとする気遣いである。言葉が言葉であろうとする「権利」などは意に介さず、彼らはただ言葉を操り、その操作に屈服するかのような言葉の配置を目にして、それがおのれの「才能」のあかしだと錯覚する。それが、いまあたりに書き継がれてゆくほとんどの言葉の蒙る存在論的な不幸なのである。

現代詩文庫『松浦寿輝詩集』所収


◇ 現代詩文庫『松浦寿輝詩集』(思潮社
http://www.amazon.co.jp/dp/4783708681/

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080304#p4)

倉石信乃「インデックス雑感」より

 そして、写真の不在は、どのように具体的に記述されうるか。写真とともにある生は、どのように写真を放逐し、その不在に耐えるのか。例えば、サミュエル・ベケットのテクストにとって、写真はしばしば、記憶、とくに自伝性を帯びた私的な記憶の代理物であり、かつ「視触覚的」な物質を意味している。写真は、眼差しの対象として想起を促すとともに、まさに眼差しと想起の「間」で、手に取って具体的に破り捨てられる「物」でなくてはならなかった。


《なにもない壁。そんなふうに毎夜毎夜。起き上がって。靴下をはいて。ナイトガウンを着て。窓のところへ行って。ランプをつけて。光の輪のへりまであとじさりして、廻れ右をして、なにもない壁に向かって立つ。昔は写真がいっぱい掛かっていた。写真 … 彼はもうちょっとで、肉親の、と言うところだった。額縁に入ってはいなかった。ガラスもついていなかった。画鋲で壁にとめただけ。形や大きさはいろいろだった。上から下へ、一枚ずつ。今はない。こまかく千切って、散らした。床じゅうにばらまいた。いっぺんにじゃない。発作的に … なんの発作か、言葉が見つからないが … 発作に駆られたんじゃない。一枚ずつ壁から引きはがして、こまかく千切った。何年にもわたってだ。何年もの夜。今じゃ壁には画鋲しか残っていない。画鋲も全部じゃない。釘抜きといっしょに外へ捨てたのもある。紙のはしきれがまだついているのもある。というわけで、なにもない壁に立ったまま。》(サミュエル・ベケット「モノローグ一片」、高橋康也訳、『ベケット戯曲全集3』所収、1986年、223-224頁)


 『モノローグ一片』では、登場人物は、後期ベケットのテクストの頻出例に漏れず、緩慢に死を迎えようとしている。かつては壁中を覆っていたファミリー・ポートレイトが、長い間に外されていき、壁面はいまや画鋲の穴だらけとなる。そこには、二重に「痕跡化した風景」が現出する。一度目の痕跡は、過去の現実の喪失を補填する写真だった。二度目の痕跡は「現実の喪失を補填する写真」の喪失を補填する、画鋲、画鋲の端についた切れ端、そして壁面に穿たれた繊細な穴にほかならない。壁の穴は、パースを引いて言えば、インデックスである。「写真の死」はやがて訪れるだろう。前後してたぶん「写真の観察者の私」は滅びるだろう。一瞬たりとも他の自分と邂逅することなしに。現に写真はもはやない。私はすべて写真を破り捨てた。だが、「そこに穴はある」。それが希望か、それが問題だ。

※現代写真の動向2001「outer ⇄ inter」@川崎市市民ミュージアム カタログ所収

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080521#p2)

■「写真の九〇年代──受容の観点から  倉石信乃」より

[略] 若い世代に顕著に見られたグラフィティ的な感覚さえ「大文字のアート」としての写真に対抗的なものとして錯覚された。グラフ雑誌の一部が先鋭化し、また写真の公募展が新規に一定の権力を形成して、従来にない経路で新人が登場した。展示空間でのインパクトを意識した八〇年代的な「ビッグ・ピクチャー」の「単数的タブロー」とは異なる、手元での小さなレスポンスを慈しむ写真が、シークエンシャルで複数並列的なイメージ形式を携えて定着した。
 しかし、そんな親密な好奇心の発露にも、膨大に拡がる無関心の領分から、もの言わぬ反駁が待ち受けている。装われた無関心もまた、ふつうの、ただの無関心に迎撃されるだろう。無数の好奇心の持ち主がとけやすい塊のように「緩やかな自閉の輪」として連なり、「私」と違う誰か、よく似た誰かとの差異を測定・分類し、安堵したり不安になったりしている。他者とのインターコースを曖昧に遮断する社会・国家から表現へのやる方ない反映ぶりを、留保なく肯定する言葉の試技は、滅び去るべきだ。自己と非自己を分別する技術の錬磨を、比喩にもならない「空虚」に載せて送り届ける幾多の産物。それをともかく肯定しておけと唱える要請はしかし、微熱のように続く。

『J-フォトグラファー 新世代の写真家108人の徹底データファイル KAWADE夢ムック』所収
http://www.amazon.co.jp/dp/430997581X
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060528#p4



▽『J-フォトグラファー(略)』は、2000年3月15日発行。
▽「若い世代に顕著に見られたグラフィティ的な感覚」を
 「「大文字のアート」としての写真に対抗的なものとして錯覚」させることを唱導したのは、公募展? 批評の不在?
▽「グラフ雑誌の一部が先鋭化し」=『流行通信』『STUDIO VOICE』『SWITCH』『ロッキング・オン・ジャパン
  『H』『barfout!』『CUT』『CUTiE』『DUNE』『relax』『composite』『トキオン』『プチグラ』…………
▽「ビッグ・ピクチャー」の「単数的タブロー」=八〇年代的。
▽シークエンシャルで複数並列的なイメージ形式=いわゆるブック的な構成(※ブックという言葉自体コマーシャル業界的)。


倉石信乃『反写真論』(オシリス
http://www.osiris.co.jp/pl06.html
http://www.amazon.co.jp/dp/4309903630/

10年前の記事より

◇ FOCUS=[アンケート]アート・シーン2001 - artscape

倉石信乃●写真
例えば写真の作り手であれ受容者であれ、情報拡散的な仮想空間においてサーチ・エンジンを効率的に運用しうるオペレーターが権力基盤を強化するだろう、などと知れたことを再度予測と称して記してもよいし、そこに注入される風俗的・意匠的刺激には不感症的にも過敏にも反応できよう、さらには新奇な刺激の中から価値すらも検知できようが、転換期には旧いテクノロジーに殉ずるふりをしてその実過激な反復を徹底する者が勝ち残る可能性も否定できない、だがやはり、コンピュータの写真に与える影響がより深刻となるのは確実で、さしあたり着目されるのは、情報端末的・「携帯的」なハードウェアと映像装置との「婚姻」なのだが、外部との「間接的な接点」を確保してラインの一部に連なっていなければ気が済まない心理に否応なく組み込まれていく、あの苛立たしくも焦がれた強迫から生み落とされる映像が、いかなる身体性・物質性を帯同/剥離していくのかはやはり見逃せない、だからといって、ケータイのキーを押すのに熟達した主体がただちに新しい写真の担い手たりうるわけではなく、「携帯的」な情報の送受信システムが促すのが、複数の異なる情報の絶えざる慌ただしい短絡・転送ならば、その先に放置される分裂症的な情報の堆積「層」に、いかなる新奇な「遠近」の秩序が、誰の手引きでどのようにもたらされるかは、しばし監視されてしかるべきだろう、同時に、依然として物質としての写真を顕揚する努力は、狭隘な教条主義にも銀塩への濡れた郷愁にも拘泥せずに、反権力的なテロルを、いかに素朴なやり方でも個人的にハンドメイドで炸裂させることと不可分でなくてはならず、かかる持続と持続に伴う自発的な変革の誓約を期するのに極めて有効な展覧会の一つが、世紀を超えてドイツ・エッセンでいま開催されているロバート・フランクの個展「Robert Frank: HOLD STILL-Keep Going」(2月11日まで、Museum Folkwang, Essen)に他ならず、それは実際衝撃的な「新しさ」を慎ましくかつ決然と内包した展観であるが、今年、ヴェネツィアや横浜で行なわれる大がかりな国際美術展の中で写真がいかに遇されるかという「メジャー」な問いの傍らに、写真に始まり写真を超え出ていく漂流を幾度となく生き直している先覚者の存在を、改めて銘記しておきたいと思うのだ。
[くらいし しの 写真批評]

http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/artscape/focus/0101/focus_3.html

「まるでゲーム」、ジョイスティックが変えた米軍のアフガン前線 - AFPBB News

【10月10日 AFP】彼らは、ジョイスティックを使って兵器を動かし敵の戦闘員らを排除する――そして基地へ戻ると、米マイクロソフトMicrosoft)のXbox 360を起動し、ゲームの中の敵を倒す。

 アフガニスタンに駐留する米軍兵士のすることは、軍務中も、非番のときも、驚くほど変わらない。21歳の特技兵、タイラー・サンダスキー(Tyler Sandusky)はそう証言する。

■遠隔兵器、「敵を倒すと赤い霧」

 岩がちなアフガニスタン北東部で、サンダスキー特技兵が受け持つ任務は、昼夜を問わず遠方の標的を見つけ出すことだ。使うのは、巨大な装甲車に搭載置された高精細のビデオスクリーン。「CROWS(Common Remotely Operated Weapon Station)」と呼ばれる兵器遠隔操作システムだ。

「(画面を通して)人々を眺めているのは、かなり楽しい。すごく遠くにいるから、彼らは監視されていることに気づかないんだ。1人で操縦しているときなんか、まるでゲームみたいだよ」と、サンダスキー特技兵は実演してみせながら話した。

 スクリーンと座席右側にあるジョイスティックを使って、装甲車上部の射程6.7キロメートル超、50口径の機関銃を操作する。「敵を倒すと、赤色の霧が見えるんだ」

 だが、兵士たちの生活が快適になった一方で、テクノロジーによる兵器の発展には、倫理的な懸念も高まっている。

「敵の非人間化だ」と、ショーン・マッケイブ(Sean McCabe)特技兵(22)は言った。「ぼくらはテレビゲーム世代。だからCROWSをゲームのようにみなすのは簡単さ」

 米海軍兵学校で哲学を教えるディーンピーター・ベイカー(Deane-Peter Baker)教授は、CROWSとテレビゲームの類似は偶然ではないと指摘する。メーカーが意図的に、若い兵士たちになじみのあるXboxプレイステーションPlayStation)の操作性に似せて設計しているというのだ。

 同じくテクノロジーを駆使した兵器で今、最も議論が活発なのは、無人機だ。米バラク・オバマBarack Obama)政権が、アフガニスタンパキスタンでの国際テロ組織アルカイダ(Al-Qaeda)やタリバン(Taliban)との戦いで使用を劇的に増加させた。米シンクタンク「ニュー・アメリカ・ファウンデーション(New America Foundation)」によれば、2004年以降にパキスタンでは無人機による攻撃で1667人〜2614人が死亡し、うち20%は民間人だという。

http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2833855/7897921

米政府の見解は「80キロ圏内には1年以上住めない」 - カレイドスコープ

米国大使館の日本語サイトの下のほうにある「*震災に関する米国政府の最新の対応については米国大使館の英語サイトをご覧ください」の英語サイトから入ります。

三列の右列のいちばん上にある「For Americans in Japan」カテゴリーは、日本にいるアメリカ国籍の人々に対する注意です。いちばん上の「Travel Alert - Japan (Oct. 7)」が該当する記事です。
以下、翻訳。


米国大使館からアメリカ国民のみなさんへ−日本に旅行する場合の注意(10月7日UP)
American Citizen Services Travel Alert - Japan (Oct. 7)

http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-934.html

FUKUSHIMAの本質を問う 原発事故はなぜ起きた?:資源・エネルギー:ECO JAPAN −成長と共生の未来へ−

同志社大学ITEC副センター長・山口栄一教授に聞く 聞き手/文 林愛子

http://eco.nikkeibp.co.jp/article/report/20110928/108520/

年1ミリシーベルト超す汚染、8都県で国土の3% - asahi.com(朝日新聞社)2011年10月11日15時0分

 東京電力福島第一原発の事故で放出された放射性物質による被曝(ひばく)線量が年1ミリシーベルト以上の地域は、8都県で約1万3千平方キロ(日本の面積の約3%)に及ぶことが朝日新聞社の集計で分かった。環境省は10日に国の責任による除染地域を年1ミリシーベルト以上とする基本方針案を決めた。同省は当初、年5ミリシーベルト以上を基準とし、範囲を福島県内約1800平方キロとしてきたが、7倍に膨らむ計算だ。

 航空機による文部科学省放射線量の測定結果を基に、環境省が事故による追加の被曝量が年1〜5ミリ(毎時0.19〜0.95マイクロシーベルト)の地域の分布図を作製。福島県は8月28日、他の地域は9月18日現在の線量別の面積を朝日新聞社で計算した。

 その結果、福島県は5ミリ以上の約1800平方キロに加え、1〜5ミリの地域が約6200平方キロ。同県の面積(1万3782平方キロ)の6割にあたる約8千平方キロが除染の対象となる。

 残る7都県に5ミリ以上の地域はなかったが、1〜5ミリは群馬県で約2100平方キロ、栃木で約1700平方キロ、宮城、茨城が各約440平方キロ、千葉が180平方キロと続き、東京と埼玉は20平方キロ前後だった。山形と神奈川は1ミリ以上の地域は分布図になかった。

http://www.asahi.com/national/update/1011/TKY201110110128.html