Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

菅木志雄展@小山登美夫ギャラリー

2008年2月9日(土)- 3月1日(土)
http://www.tomiokoyamagallery.com/exhibitions/current/jpn/frame.html
http://www.tomiokoyamagallery.com/
http://www.tokyoartbeat.com/event/2008/53FB
本日オープニングです。


◎『菅 木志雄 2001 - 2007』@TKG 代官山
2月12日(火) - 3月1日(土)
http://www.tomiokoyamagallery.com/TKGD/jpn/frame.html


◎『菅 木志雄 works on paper』@TKG エディションズ
2月12日(火) -23日(土)
http://www.tomiokoyamagallery.com/TKGE/jpn/frame.html

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070504#p7)

■「対話 菅木志雄+藁科英也」(1997)より

藁科 空間とのかかわりで?
菅  そう。全然違うよね。だから空間からいくのか、完全に質量的な物体からいくのか……あるいはモチーフとして、モチベーションとして。ムーアは形態主義者で人間をモデルにする、モデル主義者よね。ブランクーシはやっぱり空間、見えないものをカタチにしていくというものがある。だからもうそこが厳密に違うわけでね。誰が考えてもとにかく違う、と思うでしょう。それでどちらが良い悪いじゃなくて、「何を引きずっているか?」という問題なんだ。形態的なものを主流にしているムーアにしたならば、やっぱりこれは従来の彫刻の形態観みたいなものを引きずっていて、そこから決して逃げようとしていないんですよね。
藁科 ムーアの彫刻の場合は空間を取り込むように作っていてもどうしても周りの空間は従になりますね。

藁科 <周囲縁景>(1992, cat. no. 177)などの壁に依拠した作品がありますね。その作品の場合、表面にパテで産めたところが点々と視線を誘く、あるいは別のパーツが手前に出ているということもその平面の中で起こり得るアナロジーをいかに観ている側の空間を結びつけるか、という……(※原文ママ
菅  そうでしょうね。たまたま規定はされている。規定はされればされるほど内側のパテの部分が凝縮するんですね。広ければ広いほど散漫になる。だからそのあたりの平面のとり方は、その時にどういうふうにその空間に立ち入っているか、ということを考えれば自然に、規制されている状態が分かってくる。
藁科 それはあくまで「絵画」ではない。
菅  絵画じゃないんです。空間なんですよね。空間がたまたま平面化、表面化していると思うな。
藁科 それを違った意味で平面を認識してしまうと、最初の話題にあったムーアのように主体である作品と従たる周囲の空間という関係となんら変わりはなくなってくるわけですね。

藁科 それは、作品を見に行くための移動、菅さんの言い方で言えば空間と時間が変わるアナロジー、その変わり方のために一点の作品を見る時にはかなり違ったものになるでしょうね。
菅  違ってくるだろうね。やっぱり違ってくることを期待していますよ、どこかで。いつの時間帯でも同じように見えるということはおよそ考えてない。違うことを想定した作り方、システムを考えないともたないところがあるんじゃないか。多数の記号性をそこにぶち込めるという意味で言えば、どんどん変わっていって変わったとたんに記号性がどんどん増えていくなり変わっていかないと作られたものの「厚み」みたいなものはなかなか出しにくい、ということじゃないかな。あるいは時間の経過。昨日見たのと今日見たのでは違う意味性がそこにパァーッと見えるようにいろんなものが含まれていれば、見る側にとってはそれだけ楽しみが増えるはずですよ。見て、「あ、そうか。ここもある、あそこもある」というふうにして、ものの多様性、空間の多様性というものを逆に認識できるとぼくは思うね。
 そうでなけりゃ、ちょっとおもしろくない。
藁科 今ではインターネットなどが発達して日本に居ながらにしてルーヴルの所蔵品が検索できる。これはもうアナロジーではないわけですね。

回顧展図録『菅木志雄 Suga Kishio』所収
http://www.ccma-net.jp/publication_catalog/1998/1998_02.html


◇ 再々録 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060820#p3
「ニンゲンのまわりにあらゆるものがありながらいかなる<カタチ>も存在しない。
<カタチ>がなければ、なにもみることがない。ニンゲンが欲するとき、<はじめ
て><カタチ>がみえ、認識される。<カタチ>はニンゲンの意識の流れにあり、
必要に応じて、<カタチ>となり、外の世界でみえる。」(菅木志雄)


◇ 菅木志雄「集散-囲束」|ウーファー・アート・ドキュメンタリー
http://www.ufer.co.jp/works/suga/index.html

FIAT MODES art, photography and digital content studies

http://fiatmodes.blogspot.com/
倉石信乃さんのブログです。


◇ 写真の権利について(2005年11月のメモより)
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060118#p2
倉石信乃「監視の現在+ウォーカー・エヴァンズの超越」より
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070613#p5
◇ 例えば写真の作り手であれ受容者であれ、
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060502#p10
◇『J-フォトグラファー 新世代の写真家108人の徹底データファイル KAWADE夢ムック』
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060528#p4


cinra magazine vol.8
http://cinra-magazine.net/backnumber/2006.html#8
倉石信乃さんのインタビューが掲載されています。