Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

アール・ブリュット(アウトサイダー・アート)とブランディングとオリエンタリズム?

◇ Collection de l'Art Brut
http://www.artbrut.ch/
澤田真一 、西川智之、本岡秀則、小幡正雄、辻勇二、舛次崇、戸来貴則、富塚純光、宮間英二郎、吉川敏明、喜舎場盛也、
日本のアール・ブリュット作家12人の展覧会がスイス・ローザンヌアール・ブリュット・コレクションで開かれています。
(9月28日まで開催。山下清谷内六郎は入っていないようです。)


◇ 日本のアール・ブリュット作家12人を招いて「日本のアール・ブリュット展」がローザンヌで開催されている。- swissinfo
http://www.swissinfo.org/jpn/front/detail.html?siteSect=105&sid=8779278&cKey=1204014451000&ty=st


アール・ブリュット/交差する魂〜ローザンヌ アール・ブリュット・コレクションと日本のアウトサイダー・アート@ボーダレス・アートミュージアム NO-MA
http://www.no-ma.jp/artbrut/
http://www.no-ma.jp/
先日まで北海道立旭川美術館で開催されていた同展が、
滋賀県近江八幡市のボーダレス・アートミュージアムNO−MAで開催中。
5月24日からは東京の松下電工汐留ミュージアムへの巡回が予定されています。


で、↓こんな記事を発見。


◇ 「正義商品」としての「障害」 - 福耳コラム

先日、とある「共生社会」関連のシンポジウムを隅っこの方で聞いていたのですが、そこで耳を疑った発言があったのは、某エコ系ライフスタイル雑誌の副編集長という人が、「ダウン症の人の描いた絵にはっとさせられた」「『障害者アート』なんて言葉は不要です」「坂本龍一さんも認めたんです」というようなことを壇上で語っていた。ああ、そういうものですか、と聞いていたのですが、そのうちに、

「障害者の『無垢』が持つ力」

まで言い出したので、わたくしもう聞いているのが辛くなりましたのですが、その後の報告を聞こうと思っていたので我慢して座っていました。でもアンケートの「本日のシンポジウムでなにか印象に残りましたか」という設問に、「私は見聞が狭いのでこれまで無垢な障害者をお見かけしたことがありませんので驚きました」とか書いてしまいましたが。でも会場の人たちの雰囲気的には、「そうよね障害者だからじゃなくってもいいものはいいわよね」という感じがあったように思います。問い質したわけじゃないですが。

ここで、「障害者が描いたから褒めるわけじゃない」というブランディングは、単にひとつメタに「障害者は天使だけど」ということを問わず語りに語っている「ひとつ手の込んだブランディング」になっただけで、「坂本龍一さんも認めたんです」というのは坂本ブランドとデュアルになったということではないのか、道端で同じ絵をたまたま見たら落書きとは思わないのか、というツッコミも想定できますが。その後、「中沢新一先生も支援しようとしているんです」というのが続いたのですが、中沢ブランドというのはむしろ縁起が悪いんじゃないかね。あの人がこれまでなにを褒めてきたのか、ちょっと調べたくなるね。

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080226/1204009224


◇ 右側に気をつけろ? - Living, Loving, Thinking

 ここで言及されている「ダウン症の人の描いた絵」がどんなものなのかわからないし、坂本龍一氏が具体的にどのように称賛したのかもわからない。そもそも「障害者アート」という言葉も知らなかった。「アウトサイダー・アート」なら知っていたけど。さて、坂本龍一といえば、以前浅田彰氏とともに大江光を絶対に認めないと発言して、大江健三郎をどうして世間は僕たち父子をいじめるの?と被害妄想に陥らせた人ではなかったか。
 世間に「アウトサイダー・アート」として紹介されている作品は(管見の限りでは)文句なく面白い。例えば、服部正アウトサイダー・アート』(光文社新書)という本の図版を見てみなよ。さて、しばしば誤解されているが、「アウトサイダー・アート」というのは「障害者」のアートを意味するのではない。服部さんの言葉を引けば、「精神病であったり知的な障害があるということはあくまで結果論であり、アウトサイダー・アートの必要条件ではない」(p.21)ということだ。「アウトサイダー・アート」を定義するのは難しいが、「アウトサイダー・アート」が何の外部かといえば、既存のゲージュツであり、特に幼稚園のお絵かきや小学校の図画工作から始まって美術大学に至る〈教育制度の範囲内での美術〉である――「その多くの作者に共通しているのは、彼らが正規の美術教育を受けていないということである」(p.17)。だから、「セルフトート・アート(self-taught art)」と呼ばれることもある。しかし、服部氏は「正規の美術教育を受けていない」こと自体が意外と困難なのだという――

 「障害者の「無垢」が持つ力」というが、「障害者」であっても「美術教育」の影響から逃れることは難しいのだから、「無垢」ということが言えたとしても、それは〈勝ち取られた無垢〉という些か矛盾した言い方にならざるをえないのではないかと思う。だから、私たちは常に「アウトサイダー」になるために修行しなければならないのであり、或いは自らの「アウトサイダー」性を「美術教育」に抗して育み守らなければならないといえるのかもしれない。或いは(これは美術ではなく音楽についてだが)ロバート・フリップ老師のミュージシャンは蓄積したテクニックを一挙に捨てる知性を持たなければならないという言葉を思い起こすべきなのかもしれない。また、作り手が美術史やら業界のしがらみやらに無頓着で、世界が作り手の中で完結しているようにみえ、観る人がいくら美術的教養を当て嵌めようとしても跳ね返されるという鑑賞者=解釈者の挫折のうちに「無垢」が構成される場合もあるだろう(Cf. p.223ff.)。〈極私性〉としての無垢。そうでない「無垢」には或る種の〈オリエンタリズム〉を疑わなければならないだろう。さらにややっこしいことに、アート(少なくとも現代アートにおいては)「アウトサイダー」であることが既に規範だということがある。
 とはいっても、これらはあくまでも「アウトサイダー」にとってのアウトサイダーが頭の中を整理するための理屈にすぎず、作り手たちはたんに作りたいから、或いは作らなければならない実存的境位に置かれているから作っているということになるだろう。だから、服部氏はアートと「福祉」を結びつけることには批判的なスタンスを採る;

知的な障害のある人たちの地位を向上させたいと願うことは崇高であり、そのための活動には敬意を表すべきである。だが、そのための道具としてアートを用いるのは、少し無理がある。アートもサッカーも*1、まずは純粋な楽しみとして享受されるものだ。(略)社会福祉の向上や差別意識の払拭というような念願や理念が組み込まれていることを意識すると、やはり楽しみには水を差されてしまう。

善意を否定するつもりはないが、芸術もスポーツも、その目的は善行ではない。(後略)(pp.106-107)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080228/1204212786

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アウトサイダー・アート関連 再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070725#p4 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20071109#p5
■ダーガーの絵は大家に「託された」のか - J0hn D0e の日誌
http://d.hatena.ne.jp/j0hn/20070713/1184321314


■前日のトップネタ↓に関連してのメモ
2007-08-11 - paint-note
http://d.hatena.ne.jp/eyck/20070811
ヘンリー・ダーガーの発見者 …… ネイサン・ラーナー
ミロスラフ・ティッシーの発見者 …… ハロルド・ゼーマン


■ティッシー(Miroslav Tichy)の展覧会場でバンクシー(Banksy)のゲリラ作品を発見!?
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20071108

アンリ・ミショーから1978年のサカモトへ

坂本龍一千のナイフ
http://www.amazon.co.jp/dp/customer-reviews/B0000073JF


Ryuichi Sakamoto 1000Knives (prog.:denha)
http://jp.youtube.com/watch?v=YBfDVFtFI7g
Ryuichi Sakamoto - Thousand Knives (Trio World Tour 1996)
http://jp.youtube.com/watch?v=35NBuRqI8K8
YMO - 1000 Knives
http://jp.youtube.com/watch?v=GznecDBMPFk
YMO - 1000 Knives (Budokan 1980)
http://jp.youtube.com/watch?v=w85Of8Lk3dI


◇ MUSIC - 氷上の月

千のナイフ坂本龍一
まだテクノロジーが未発達だった1970年代の終わり頃に、せっせとコンピューターを使いこのアルバムをしあげた教授はすごいなぁと思います。複雑に絡み合った音のなかににじみ出てくる、教授らしいロジックと美的感覚。いくつもの教授のアルバムの中でも、とくにこのデビューアルバムが好きです。ライナーノートは教授自身が書いています。


見を汚すことの快美。
男娼願望。
(中略)
音楽で人を救うなんて絶対できっこない。救われないと思っている奴らの嘆き武士なんだから。救われない人たちに、その救われなさを一緒に歌って欲しいと思っている、ホントは。
一緒に死んでください。


こう吐露した教授は、交差点でピアノを弾いている教授を、どう見ているのでしょう?

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Keyaki/6166/music.html

阿列布少女/中国女

◇ これが、革命的オリーブ少女主義者同盟演説の動画だ! - 安全ちゃんオルグ日記

ネットの噂によると、オリーブに「憧れちゃうね、全共闘!」というアオリ文句が出現するほど、昔のオリーブ少女は革命的闘争心に溢れていたようです。そんな、革命的オリーブ少女主義者たちの姿を、youtubeという最新の科学技術を用い、現代によみがえらせてみました。

http://d.hatena.ne.jp/anzenchan/20080227/1204115637


◇ 中国女 予告編
http://jp.youtube.com/watch?v=82if5thFoCw
◇ The Internationale
http://jp.youtube.com/watch?v=fhWxiVpeCL0
◇ La Chinosie - Vietnam
http://jp.youtube.com/watch?v=V-R9GkhNLrU
◇ Mao Mao
http://www.youtube.com/watch?v=0SPg2gTptzE


◇ JLG『中国女』
http://www.amazon.co.jp/dp/B000068OZH

赤い本を見よ  浅田彰
 『中国女』は赤の映画である。赤の思想を描いているから?それだけではない。 その水準だけでみれは、この映画は、1968年に流行した毛沢東思想を賛美したものとも、毛沢東思想にかぶれたブルジョワの子女を揶揄したものともとれ、いずれにしても徹底性を欠くということになるだろう。むしろ、この映画の力は、赤を文字通りの赤として示すところにある。
 そう、メタフォリカルにではなくリテラルに。そこでは、政治状況が分光器にかけられて色分けされ、提示されてゆくのだ。ブルジョワのアパルトマンの白い壁と、そこに並ぶ赤い毛沢東語録。その鮮やかなコントラストがすでにすべてを示している。「この赤い本を見よ」とゴダールは言う。振り返ってみればあの時代、われわれは、毛沢東語録を伝える北京放送を、ウォーホルの描いた毛沢東の肖像のようにポップなものとして聴いたのだった。『中国女』は、その鮮烈な赤によって、ポップ・アートをも凌駕してみせる。だがそれは、プロパガンダでないのと同時に、パロディでもない。その色彩による政治学は、いま見てもウォーホルと同じくらい新鮮で、しかもどんな歴史書よりも立体的に当時の状況を提示してくれるのである。
 この赤の映画がニュー・プリントとなって蘇った。生まれたてのように鮮やかなその赤を見ながら、陰鬱な混色の時代を生きるわれわれは、あの赤の時代を昨日のことのように思い出す。その赤は、しかし、混色から抽出されるべきものとして、今日の現実のなかにも確かに存在しているのだ。赤の映画である『中国女』はわれわれにそのことを教える。

http://www.minipara.com/movies/lachinoise/


松岡正剛の千夜千冊『中国の赤い星』上・下 エドガー・スノー
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0188.html