Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui http://www.nobuhiro-fukui.com/

小説の方法 〜 伊藤整 - 備忘録

P96〜97

ロシアの文学者と日本文学者の違い

・ロシア文学者は知識階級者の社会に席を持っていた

・キリスト教によって倫理観を形成していた

・守るべき個我の権威があり、捨て去ることのできない現世があった

・日本の文学者は小さな商業ジャーナリズムに支えられていただけ

・逃亡奴隷の自由生活の実践者

・俗世と対立せず、俗世における自分の席を放棄(P168)

・限定された文壇という環境の条件とのみ格闘(P168)

http://d.hatena.ne.jp/biyoko/20120131/1328029074


伊藤整「小説の方法・小説の認識」 - 二草庵摘録

<我々は神の代わりに無を考えることによって安定しているのである。考える力がないのではない。考える必要を感じないでバランスを保っているに過ぎない。無の絶対は神の絶対と同じように強いものである。>(「近代日本人の発想の諸形式」)
これはわれわれが、小説の何に対して感動し、共感を覚えているかを問うたものあった。自分だけの、固有のものと考えている「感動と共感」も、歴史的・文化的な所産以外のなにものでもない、と。実例をあげての論証が十分に展開されているとはいえず、ところによっては説得力が乏しい憾みはあるが、わたしが読み得たかぎりでは、伊藤理論は全体としてすばらしい成果をあげていると思われる。
 また島崎藤村の文体を日本固有の挨拶のことばであるとし、その本質を見抜いている。たとえどのような知識人であろうと、日常のなかで、社会から浮き上がらず他人と折りあいをつけながら生活をしようと考えたら、島崎藤村が用いたような、遠まわしな、非論理的、因習的環境を受け入れざるをえない、と。これは一面からは、よくいわれる「社会」と「世間」の落差といってもよかろう。


「内なる声と仮装」「「物語の発想」「芸による認識」「日本的人格美学」といったタイトルを眺めただけで、伊藤のアイデアが秀抜であったことがわかる。またのち「求道者と認識者」を書いている。
ここには収められてはいないが、伊藤には有名な「仮面紳士と逃亡奴隷」というエッセイもあり、このキーワードから解き明かされる西欧と日本の比較文学論は、いうまでもなく、その後のわが国の文芸批評に決定的な影響をあたえている。
そこで彼は、つぎのような設問をみずからに向かって発している。


 1.小説とは何か。
 2.日本人は小説のどういう所に感動するか。
 3.小説の実質は思想にあるか、散文の造型にあるか。
 4.小説と他の芸術とは本質的に違うか。
 5.違うとすれば、どこが違うか。
 6.ヨオロッパの小説と日本の小説との違いはどこにあるか。
 7.小説は進化するか。
 8.進化するとすれば、どんな方向にであるか。
 9.倫理的な現実処理と小説とは違うか。
10.日本やヨオロッパの小説は作者の生活環境とどういう関係を持つか。
11.スタイル探求と倫理の探求とは小説にどのように関係するか。
 (「仮面紳士と逃亡奴隷」より)

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伊藤整「近代日本人の発想の諸形式」MEMO - 言いたいだけ - Yahoo!ブログ
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