■日本文学再生会議 - 未映子の純粋悲性批判
日本文学再生会議
宇野常寛×市川真人
■2008年5月18日(日) 18:30〜
場所* ジュンク堂新宿店 8階喫茶にて
定員*40名
入場料1000円(1ドリンクつき)
ご予約方法 7階カウンター
もしくはお電話03−5363−1300で承ります。
今日の文芸/思想メディアおよびそこに生まれる作品・批評、あるいはそれらをとりまく言説は、どこに修正/発展可能性を持つのか。東浩紀、大森望ら先行世代と切り結び、いまや商業文芸誌を凌駕する勢いで若い読者の支持を獲得しつつあるインディーズの雄「PLANETS」と、定評ある批評路線に小説家・川上未映子の誕生によって創作もトップギアに入った復刊第十次「早稲田文学」−−今、最も高濃度の紙面を誇る二大雑誌を率いるとともに、先鋭的かつ挑発的な批評の書き手でもある宇野常寛氏と市川真人氏をお招きし、文学・思想・メディアさらには言葉・社会……に至るまでを挑発的に語って頂きます。
文學界6月号(※この号に掲載されてる西村賢太さんの小説おもろかった。っていうか西村さんの小説が載ってたら、絶対に一番に読んでしまう)に寄せた「文体の消滅について」というエッセイで、宇野さんは東浩紀さんが小説を文芸誌に発表したことに触れ、「小説を取り巻く状況」に呆れ、「能天気なサークルというか(強いて言うなら「文壇」とも言うべき)沈みかけた護送船団の空気」、「いまだに高橋源一郎に無害な極論を(極めてマッチポンプ的に)説かせたり、口先では既存の文壇を批判しながらも、その一方で中原昌也あたりにキャラ萌えして仲間褒めばかりしているような連中には、一生かかっても埋められないような距離が発生していることを」具体的に憂い、怒っているというよりかは、まあ呆れたと言ってるわけです。
いわゆる「文体」に拠って成立しているこれまでの小説がまったく読まれず、携帯小説やライトノベル、キャラクターとプロットさえ練りこめば誰にでも小説が書けてしまいそれしか読まれていない現在において、「文体」小説にいったいいかなる意味があるのかしら、文体が見せてきた幻想とはいったい何か。どっちにしろこんな問題に気づいてさえいない馬鹿ばっかりの出版業界、どうにかならんの、というわけで、今回は「文体」の話を中心に、色々の再生を図るかなにかするのでしょう。まあ宇野さんの文脈にそって「小説家ではない人が書いた文体のない小説には売れる読まれるという価値がある」と解釈するなら、そのまま「職人が書いた文体の肥大した小説には、売れない読まれない価値がある」とわたしは思うのだが、まあ宇野さんが言いたいのはこれまでし尽くされてきたこういう話でもないんだろう。(田中弥生さんの純文学F1説思い出す)
まあ「文体」とか「会いたい」とか、そういうものが指すものの背後にあるものってつまるところいったい何かということについて考えるのはわたしにとっても有意義だ。ほいでもって対談の相手には市川真人。うひー。これはとっても面白そう。文章や小説や現在に興味のある人は行かなきゃもったいないと思うので、みなさん是非。面白くなると思う。わたしも行く。
http://www.mieko.jp/blog/2008/05/post_4224.html
川上未映子さんのブログで告知されていた↓ですが、すでに「満員御礼」だそうです。
http://www.junkudo.co.jp/newevent/evtalk-shinjyuku.html#20080518shinjuku
“いわゆる「文体」に拠って成立しているこれまでの小説がまったく読まれず、
携帯小説やライトノベル、キャラクターとプロットさえ練りこめば誰にでも小説が書けてしまい
それしか読まれていない現在において、「文体」小説にいったいいかなる意味があるのかしら、
文体が見せてきた幻想とはいったい何か。”
というくだりは、文学だけではなく、
他のジャンルにもあてはめて考えてみてもよいのかもしれません。