Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

冨井大裕さんインタビュー@Culture Power

◇ 冨井大裕 - Culture Power
http://apm.musabi.ac.jp/imsc/cp/menu/selection/tomii_motohiro/intro.html
http://apm.musabi.ac.jp/imsc/cp/menu/selection/tomii_motohiro/interview.html
中島智さんによる作家紹介と森啓輔さんによるインタビュー。


>>>冨井大裕さんのインタビュー
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070618#p6


>>>PEELER/冨井大裕インタビュー
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080127#p4

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◇ 再魔術化するアート 中島智 - web complex
http://genbaken.com/contents/discussion/nakashima/nakashima1.htm
http://genbaken.com/


◇ 見い出された〈非時間性〉 中島智 - web complex
http://genbaken.com/contents/discussion/nakashima/nakashima.htm
http://genbaken.com/


>>>「web complex」更新  …………  「現場」研究会討議記録 2006年9月22日
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070218#p7

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>>>コンタクトレンズが「堕ちる」―《瞬の間》にみる交叉配列としてのタナトス - それいけ!現場犬
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080718#p10


>>>O JUN「眼の、前に」 - PEELER
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080510#p8

メモ1

歴史認識デリダハーバーマス - kom’s log
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20090105#p1


◇ Derrida contre Habermas(Memo) - Living, Loving, Thinking
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090107/1231344604


◇ 『われわれの戦後復興―ヨーロッパの再生』 - ネ タ の タ ネ
http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20090103


三島憲一『現代ドイツ 統一後の知的軌跡』 - stranger in anywhere
http://d.hatena.ne.jp/Lapis-lazuri/20090105/1231145692

メモ2

YouTube - idfnadesk's Channel
http://jp.youtube.com/user/idfnadesk
スラッシュドット・ジャパン「イスラエル国防軍空爆動画をYouTubeで公開中」(http://slashdot.jp/it/09/01/05/072249.shtml)経由。


◇ ▼ネット上のインティファーダ(民衆蜂起) - イルコモンズのふた。
http://illcomm.exblog.jp/9148168/


◇ ▼世界は黙ってない、抗議の大合唱はますます大きくなっている - イルコモンズのふた。
http://illcomm.exblog.jp/9171776/


◇ ガザ・中東大戦争の瀬戸際 - 田中宇の国際ニュース解説
http://tanakanews.com/090103Gaza.htm

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>>>日本の新聞テレビで報道されない写真で見る圧倒的軍事力の差! イスラエル軍ガザへ戦車で侵攻 - webDICE - 骰子の眼
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090106#p4


>>>ジョー・サッコパレスチナ』(いそっぷ社
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070923#p4


>>>オバマに贈られる中東大戦争 - 田中宇の国際ニュース解説
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20081231#p19

2009-01-05 - ノート

アウシュヴィッツ以降もはや詩を書くことは野蛮だと誰かが言ったらしい。それなりに気の利いた皮肉ではあると思うが、ユダヤ人によるパレスチナの人々への迫害や虐殺が公然と進行するこの世界にあっては、そんな言葉は一切の効力を失った、どうでもいいものだ。"もはやアウシュヴィッツと言う全てのユダヤ人は野蛮だ" と言いたい。口では "私たちは虐殺された" と言いながら空いた両手で他の民族を虐殺してはならない。

http://d.hatena.ne.jp/nipponianippon/20090105


>>>アドルノ箴言を覆すには、野蛮でありさえすればよい。
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060915#p3

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080824#p15)

■メディア・空間・時間・痕跡 - new century new cinema

撮られた当時には見えなかったものを指摘することによって今我々が何ものかを見過ごしつつあることに気づくこと、それはビトムスキーとともにかつて共同作業をしたことのあるハルーン・ファロッキとの共通の主題でもある。ファロッキの代表作『この世界を覗く-戦争の資料から』は終戦前にアウシュヴィッツを撮った米軍機の航空写真から、強制収容所を認知することができなかったエピソードを中心に、メディアがとらえた映像について当時の人々が読み取れなかった兆候から視線の不在を批判している。そしてこの視線の不在は『囚人を見ているのかと思った』の監視装置と『遠い戦争』のミサイルにとりつけられたキャメラのとらえた映像に至って、システムからの人間の駆逐が完成する。そこでは見ること、認識は機械に委ねられ、我々と機械の立場は逆転する。つまり今では機械=メディアが人間の視線を限界づけコントロールしているわけだ。ゴダールの『パート2』にアイディアを得た『アイ・マシーン』シリーズの併置されたふたつの画面とズラされた編集は、使われている素材とは反対に、我々の視線が限界づけられた機械の視線を超えてふたたび疑念や批評的視線や歴史的意識といった自立性を回復できるのかどうかを緊急に問うている。視線の欠如こそ我々の破滅へと直接的につながるものだからだ。

http://www.ncncine.com/index.html
赤坂大輔さんのウェブサイトより。

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070727#p4)

■国際会議 ユビキタス・メディア――アジアからのパラダイム創成 - les livres lus au clair de la lune

 続いて蓮實さんの話。これはきわめて明快。彼はいつも単純なことしか言わないのだ。要約してみよう。

 ここで蓮實が提示するのは「トーキー映画はサイレント映画の一形式である」という仮説。つまり映画というのは、現在のトーキーでも映像と音声を同時に記録できるものではない。フィルムには映像を、磁気テープには音声を収録し、両者をシンクロさせて、上映するものにすぎない。だからトーキーといえども、それはサイレント映画を上映し、その側でテープレコーダーを再生しているにすぎないというのだ。この仮説が述べているのは、映画における音声の著しい従属的身分である。そもそも映画を撮影するキャメラは高速でモーターを回転させるため、大きな駆動音を立てる。この駆動音は撮影現場で役者の発するセリフを収録する際に大きなノイズとなる。また、音声はマイクで収録されるが、そのマイクは絶対にキャメラのフレーム内に存在してはならず、照明によって影が生じる位置にあってもならない。だから音声はつねに映像に対して従属している。これは現在にいたるまで基本的にはかわらない。だがディジタル・ヴィデオによって映画を撮る監督が出現してきている。そのなかには先鋭的な映画作家と呼びうる、ペドロ・コスタ青山真治という名前も存在する。彼らがディジタル・ヴィデオで撮影した映画は、はたして依然サイレントの一形式であるのか・・・。ところで、「トーキー映画はサイレント映画の一形式である」という仮説は我々になにを教えるのか? それは映画における表象不可能性の問題への一つの疑義である。つまりランズマン対ゴダールによる「アウシュヴィッツの表象不可能性」論争(およびその代理戦争である、ジェラール・ヴァイクマン対ディディ=ユベルマンの論争)において決定的に欠けているのは、音声である。彼らが表象可能/不可能と述べるとき、そこで念頭におかれているのは画像・映像であり、音声ではない。アウシュヴィッツガス室で駆動していた装置の音、ユダヤ人たちの阿鼻叫喚の問題はどうなるのか? それは広島でも9.11でも変わらない。9.11の報道映像において決定的に不在だったのは音声である。映像と音声を同時記録できるはずのディジタル・ヴィデオがとらえていたはずの光景に、音声は存在しないのだ。したがって、21世紀の最初の年におこったこの出来事は、依然、サイレントの20世紀に属しているのである。

 言われてみれば実に当然のことだが、このような指摘をした論者はなかっただろう。アドルノ&ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』、デリダ以降の音声中心主義批判、そして表象不可能性の論争。これらを一直線に結べばおのずと出てくるはずの議論だが、こういう単純なことを、あの馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しい(そのことに本人も大いに自覚的である)独特のレトリックで、さりげなく述べてみせる蓮實重彦は(ハスミ虫とよばれるエピゴーネンたちの挙動がいかに愚劣であるといっても、それは蓮實の責任ではない)やはりすなおに偉大だと言ってよいと思う。

http://d.hatena.ne.jp/clair-de-lune/20070713/p1