Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

山形浩生さんの『エントロピーの森』(1999年)より

◇ SD: Entropic Forest No. 1 - YAMAGATA Hiroo: The Official J-Page

 都市は生きている。みんなさもわかったような顔で、そんなことを口走る。気の利いた比喩かなにかのつもりで。でもそれをもっと文字通りに理解してみたらどうだろう。通俗ガイア論者のような擬人化は避けるべきだけれど。都市も人間も、どちらもお互いの営みをまるで意に介することなく、不思議な共生関係をくり広げている。生物としての都市。そしてそこに関わる意図せざるエージェントとしての人間。

http://cruel.org/sd/sdef01.html
この文章を最初に読んだのは、山形さんの『たかが、バロウズ本』が出版された2003年だったと思います。
単行本を古書店で立ち読みしたのはもっと後で、2006〜07年あたり。たぶん源喜堂で。
今考えると、資料として買っておけば良かったかもと、、、少し後悔しています。
当時はハイナー・シリングの作品とその方法を素直に受け入れることができなかったというか。
『10+1』の連載を含め、もうちょっと細かく見ていくと
今後考えるべきいくつかのポイントが浮かび上がってくるかもしれません。


エントロピーの森 - 積ん読パラダイス
http://www.asahi-net.or.jp/~wf9r-tngc/entropicy.html

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◇ SD Stuff - YAMAGATA Hiroo: The Official J-Page

SD 連載

大学時代は欠かさず読んでおりました SD も、ついに山形の毒牙にかかる! わははは。チュミ『建築と断絶』で世話になった森田さんから話がきて、いきなり連載。大丈夫かなあ。いいの? (2000年5月:なんかよくなかったみたい。不穏な情報が……)


連載 Entropic Forest

ドイツから、ベッヒャー・シューレのハイナー・シリングというカメラマンが文化奨学金みたいなので、1998 年の秋から日本に一年いる。ベッヒャーって、タンクの写真とかたくさんとってる人で、すみずみまでピントが会った変にくっきりした写真を撮る人なんだけれど(とこの連載を機にはじめて知った)、このハイナー・シリングもその系統で、タンクとか、団地とか、高速のランプとか、ゴルフ練習場とか、駐車場とか、そんなものばかり撮っているのだけれど、それに文をつけなさい、という注文できた。「写真の解説じゃなくて、なんかこう並行するような感じで、インフラという視点から……」とのことなんだが、まあどうなるやら。

 ハイナー・シリングはいかにもなドイツ人で、まあブリクサ・バーゲルドに似ていなくもないかな。連載タイトルはかれがつけた。かれはトマス・ピンチョンのファンなので、なんかこういうのになった。ほうほう、それならその趣味にあわせてやろうじゃないの、というわけで……


第 01 回 「まつ。」(英語版) SD 1999年 1 月号

 柳下はこれを読んで、かなりニヤニヤするところがあるであらふ。バロウズとピンチョンとギブスンのぱくりだけで構成されているような代物。伏線ばかりで中身がまったくない! いわば、リンクだけでできてるような代物だな。でも、まあ雰囲気だけはなんとか……
 ハイナーくんが読めるように英語版もつくってあるのだ。

http://cruel.org/sd/

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060103#p2)

■「(c)2003 山形浩生」本著作権表示を残す限り、自由な複製再配布を認める。また本著作権表示を残し、改変部分を明示する限りにおいて、山形浩生著作権が帰属する部分の全体・部分を問わず自由な改変と再配布を認める。

 でもそこで当然起こるはずの疑問がある。なぜこの人だけがそれを読めて、ほかの人は読めないんだろう。さらにだね、そんな他の人には読めないようなことが読めてしまうのは、単にデムパな人だというだけのことじゃないだろうか? さらに、そこまでしてなぜそんなことを読みとってみせなきゃならないのか、それは一体小説全体からくる総合的な印象の中でどのくらいの割合を占めるんだろうか? いまのブンゲー批評は、そういうことを考えないし、考えることができない。そしてそれをごまかすために、最近の文芸批評はますますジェンダーだのコロニアルだの、社会的に立場の弱い連中にすりよって、そいつらのご機嫌伺いをするようなまねをすることがえらいと思いこむようになっている。自分たちのやっていることに自信がないもので、そうやって既存のPCな価値観にすりよることでしか自分の存在意義を見いだせずにいるのだ。やればやるほど小説そのものは脆弱になっていくのに。ついでに言えば、男女同権はある程度現実に進行してきたし、植民地主義の影響もだんだん薄れてきて、徐々に是正されつつあるのだ。したがって、ジェンダーなんたらやコロニアリズムなんたらで問題にされている「問題」というのは、具体的な対処方針以外は片がついている。それを今頃、現実世界で話の方向性の目処がついた頃になって、それを得意げに蒸し返して「問題だ」と騒ぎ、弱いものの味方ヅラして見せる−−同じ日和見するんでも、もっとタイミングを考えればいいのに。
 もちろん、人は社会的な動物だし、小説が訴えかける感情も、ある程度はその他の価値観に依存するのは事実だろう。ただ、そんな答えが決まっているものをやったってしょうがないのだ。ジェンダーなんたらって、どうせ「男女差別はいけないけれど男女の性差も尊重しましょう」って結論になるだけだし、コロニアリズムなんたらは「植民地主義は深い傷跡を残してよくありませんね」という結論に落ち着くだけなんだもん。もし小説がなんてものが今後価値を持つとすれば、それはもっと先鞭をつけなきゃならない。もっと答えの出ていないものに答えを出して行かなきゃならない。いま、これからも薄れることなく存在し続ける課題に訴えるものだと思う。そうじゃなきゃ、だれがそんなものを読みたがるね。そしてそれが小説全体の持つおもしろさの総体に占める、割合というかインパクトみたいなものも、定性的にせよ考えなきゃけない。要するに、あることを読みとるための努力と、それがもたらす小説的な便益とで、B/C を多少は考えてやんなきゃいけないのだ。さもなきゃ、だれがそんな努力をするね。そしてそれを考えるためには、つまらない部分のつまらなさをはっきり指摘しなきゃいけない。あるいは、ある部分をつまらないと思う人が、なぜそこをつまらないとしか思えないのか、その人に欠けているものはなんなのかを指摘しなきゃいけない。


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 さて冒頭で、ぼくは書いた。いったい 2050年の人たちはどうしてバロウズを読もうと思うだろうか、と。
 かれらがいったい何を感じるだろうか、と。 2050年の人々も、やっぱりいろいろだろう。でもバロウズにその時点で残された価値は、社会風刺でもなければ性の解放でもないだろう。ごく少数の人(そしてひょっとすると多くのマシン)には、かれのアルゴリズムがなにがしかの示唆を与えてくれるかもしれない(が、一方でその程度のことは必ずしもバロウズ経由でなくても思いつけるだろう)。残った最大の価値は、かれの描いたあらゆるレベルでの自由、そしてその失敗というものであるはずだ。ぼくはこの問題が2050年に解決されているとは思わない。今後数十年で、レムやルロワ=グーランの予見した事態が現実化するとは思えない。人は相変わらず、適正な自由とコントロールのはざまで右往左往しているはずだ。ある人は自由を夢見て、そしてある人は自由から逃れようとして。
 それはひょっとすると、欧米や日本ではないかもしれない。20年くらいしたら、中国人たちの間にビート小説ブームかなんかが起きたりしているかもしれない。そして残念なことに、その人の多くはいまのバロウズファンの多くと同じように、本当にイヤなやつだろう。社会の脱落者、社会のおちこぼれ、そしてもっと醜悪な、社会の寄生虫のたぐい。 社会の豊かさが作りだした余剰にたかってご託を並べるだけの連中。バカなヒョーロンカに三文アーティスト、大学教員(の一部)にその学生ども。ぼくが8章で分析したバロウズの読者像−−ごくつぶしの暇人ども−−はこの先も長いこと絶えることはないだろう。
 そういう人たちの多くは、特にバロウズの『裸のランチ』から『ノヴァ急報』などの作品を読んで(いや、読めはせずに、単にその噂をなんとなく聞いたり、本書みたいなアンチョコを読みかじって)気勢をあげることだろう。ゲイだった、ドラッグ利用者だった、 奥さんを殺した−−相変わらずそんなことに喝采を続け、「クールだよな」と無邪気に喜ぶことだろう。自分たちの無責任さの肯定と、そしてそれが現行の社会制度を否定していることが、自分たちの無能さの正当化が行われているんだと思うだろう。バロウズが生き、バロウズが念頭においていたのが、どんな社会システムであり、どんな制度環境であったのかについて、なんら考慮することはないだろう。かれらはそこに、自分たちの弁明を見ることだろう。人がポルノを読んで、自分にできない性行為を妄想しつつ股間をまさぐるように、ロマンス小説を読んで、自分にできない恋愛を妄想しつつ股間をまさぐるように、その人は自分には使う当てのない自由を妄想しつつ股間をまさぐり、そしてカタルシスを得て、そのまま腐って消えることだろう。それはそれで、ほほえましいといえばほほえましい。
 そしてそれが続く限り、バロウズの読者はそれなりの頻度をもって出現することだろう。
 でもごく一部の人は、その先へ進むだろう。バロウズの小説にある悲しさの意味−−バロウズの「自由」の行き着いた先にあったもの−−を感じ取るだろう。
 バロウズにあるのは、行き場を失った自由たちのブラウン運動だ。方向もなく、何かに向けて組織されるわけでもない、ある意味でまったく無駄な、浪費される自由たちの散乱。実現するはずだった「究極の自由」が見えないまま迷走し続け、やがて沈殿して淀む自由たち。あるいはコントロールなき後の、瓦礫の山。だからこそ、バロウズの文はすべてちょっともの悲しい。それはその自由のせいではなく、ひょっとしてあまりに多すぎる自由に耐えられないぼくたちのせいなのかもしれないけれど。何もない、瓦礫の山や砂漠の真ん中で、人は自分の自由を喜ぶべきなのかもしれない。でも、ぼくも含めて多くの人はそこまでの強さは持ち合わせていない。だからこそ、人々はバロウズの小説を読み始め、やがてうんざりして、それを投げ出す。人はたぶんそこで、自分がバロウズの小説を投げ出した意味を考えてみるべきなのかもしれない。


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 そしてもう一つ、まわりの人がどうバロウズを理解し、利用していったのか。それがどんな「後継者」を生んだのか。そこらへんを理解することもだいじだ。それはさっき言ったような、バロウズの持っている効用とかニーズについて、いろいろ物語ってくれるものではあるからだ。そして、それを手がかりに、小説とかアートとか、そういうものの将来をちょっとかいま見せるような話も少しできるんじゃないか(なぁんて、もうその部分は書いちゃったから、できるのはわかっているのだ)。ぼくは、いずれ小説は自動化されるだろうと思っている。小説だけじゃない。ほぼあらゆるアートやエンターテイメントは、 コンピュータのアルゴリズムで表現されるようになり、そしてそのアルゴリズムをもとに「作者」というものなしに量産されるようになると思っている。ウィリアム・バロウズの本には、その可能性のかけらが見えている。それをどう実現するかというアルゴリズムが示されている。つまりウィリアム・バロウズは、作品と、それをつくるアルゴリズムの分離の先鞭をつけた。これはもうバロウズそのものについての話からはかなりはずれてしまうのだけれど、ええい、ほかにあてもないし、ここで書いちゃえ。それが万が一現実化したとき、バロウズはその大先達として永久に生き延びることになるだろう。


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 さらに、個別の単語以外でも、言語全体がその制約を担っている。言語の文脈を破壊することで、人が支配から逃れるようになれる。そして、バロウズモルヒネを処理したアポモルヒネによってモルヒネ中毒から脱したように、言語そのものを処理して作り替えることで、人々が既存の言語中毒から逃れるツールに仕立て上げられるはずだ。その作り替え処理がカットアップなのだ、ということ。
 もちろん、その支配脱出を行うのは、自分自身でなくてはならない。そうでなければ、 他の人が作った新しい「現実」にまたとりこまれて支配されるだけだからだ。カットアップは、万人が受け入れるだけでなく、実践するものでもあるはずだった。
 そして最後のレベル。現実認識という話。ここにかれのもう一つの強迫観念が加わる。人はどうやって支配されているか? それは「現実」というやつによってだ。人が現実だと思っているものは、実は単なる記録だ。何かが現実に起こったとどうやって確認できるだろう。たとえばぼくがある日に現実に出勤したとどうしてわかるだろう。それは出勤簿とかそういう記録によってだ。その記録が書き換えられてしまえば、現実も変わる。スターリンや中国はそれをやった。既存の言語を否定することで、既存の記録も否定できる。そして新しい言語を作ることで、新しい、自分の望む現実を作ることができる。


再読部分を再々読。
以上のテクストは、(c)2003 山形浩生『たかがバロウズ本。』(大村書店)より。
山形浩生さんのサイトからpdfをダウンロードすれば、無料で読むことも可能です。

【YAMAGATA Hiroo Official Japanese Page】
http://cruel.org/jindex.html