Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

レトリスム - 現代美術用語辞典ver.2.0

レトリスムは、ルーマニアの詩人イジドール・イズーが第二次大戦直後のパリで提唱した、当時最も過激な前衛芸術運動である。意味のない音響詩や、独自の絵文字を多用したハイパーグラフィーと呼ばれる絵画・彫刻、表現手法のみならず製作制度、劇場や観客といった形式までをも解体するディスクレパン映画やパフォーマンスなど、多岐にわたる実験的な創作活動を展開した。レトリストには、イズーのほかに活動的な作家でありスポークスマン的存在だったモーリス・ルメートルや、フランソワ・デュフレーヌ、ガブリエル・ポムラン、ジル・ヴォルマン、のちに「アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」を結成するギー・ドゥボールなどがいる。その現代的な意味に関して最も重要なのはイズーの方法論および主にルメートルによってなされたディスクレパン映画の業績であろう。レトリスムは「文字主義」と訳されるが、基本的な方法論はダダ/シュルレアリスムが行なった既成の芸術形式の解体を、言語の最小単位である文字にまで押し進めるものである。それはさらに先達のダダ/シュルレアリスムと同様、単なる芸術運動でなく、理論、思想および政治的社会実践を伴った総合的なムーヴメントであった。イズーの方法論では、レトリスムは言語の完全なる解体であるとともに、そのゼロ度からの全面的に自由な「創造」行為であり、それを実践する芸術家は「創造者」であるとして定義される。この創造性というユートピア的な概念によって、レトリスムは「青年の蜂起」という独自の社会変革理論を唱え、それは1968年5月のパリにおける五月革命などに大きな影響を与えた。この問いの直接性はまた、レトリスムが本質的に芸術運動であったからこそ可能であった。その芸術的実践の可能性と限界が現われるのが、その批判性をより社会実践的に継承・発展するシチュアシオニストとの分岐であった。
著者: 河合政之

http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%83%AC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%A0


レトリスト・インターナショナルとは - はてなキーワード

レトリスト・インターナショナル 1952年、ギー・ドゥボール、ジル・ヴォルマン、セルジュ・ベルナ、ジャン=L・ブロー、アンドレ=フランク・コノール、ジャック・フィヨン、ムハンマド・ダフ、パトリック・ストラランミシェル・ベルンシュタインらのレトリスト左派が、イズーらの神秘主義化と美学至上主義に反発して結成した集団。「状況の構築」、「転用」、「漂流」、「心理地理学」など、シチュアシオニスト・インターナショナルの主な理論は、このレトリスト・インターナショナルのなかで既に提出されており、彼らの機関誌「ポトラッチ』には、これらの理論に基づいた活動が数多く報告されている。機関誌『ポトラッチ』は、1954年から1959年まで、全30号刊行、1957年11月発行の第29号からは、SIの内部誌になった。また、『ポトラッチ』発行以前に機関誌『アンテルナシオナル・レトリスト』が第4号まで出された

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EC%A5%C8%A5%EA%A5%B9%A5%C8%A1%A6%A5%A4%A5%F3%A5%BF%A1%BC%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EB


◇ Maurice Lemaitre - モ―リス・ルメートルレトリスム

ダダ・シュールレアリスムを継承・発展して、戦後パリを中心に起こった最も過激で反体制的な前衛芸術運動。イジドール・イズーが理論的中心となり、1940年代に創始された。メンバーには終始その最も活動的で革新的な実践者であるモ―リス・ルメートルの他、ガブリエル・ポムラン、フランソワ・デュフレーヌ、ジル・ヴォルマン、ギー・ドゥボールなどがいる。創造性(クレアティク)を人間活動の第一原理として捉え、不断の創造によって社会の分裂を超克することを理念とする。文学的には、文章の解体を「文字(レットル)」という極限にまで押し進め、既成言語のあらゆる制約の破棄を目指す。また文学以外にも象形文字的な絵画やオブジェ・彫刻、意味不明な音声やノイズによる音響詩的音楽、また映像と音の関係を脱臼させたりスクラッチ・切り刻みなどをフィルムに施した実験映画、劇場自体を行為の場として開放的に呈示するハプニング的演劇など、多岐にわたるジャンルの作品が制作された。またレトリスムは単なる芸術運動にとどまらず、創造の原理に基づいた「若き人々」の活動によって社会を変革するという経済・政治的な運動でもある。50年代末、レトリスムは思想・政治的な方向性の違いから分裂し、ドゥボールらによるレトリスト・インターナショナル(後にインターナショナル・シチュアシオニスト)などいくつかの分派が形成される。レトリストの思想は直接・間接的に68年の五月革命など革命的運動のバックボーンとして大きな役割を果たした他、その芸術は20世紀後半の様々な前衛運動に多大な影響を与え、現代においてもなお様々な分野で再発見/継承されつつある。

http://lemaitre.vctokyo.org/lettrisme.html


レトリスム - Wikipedia

レトリスム(仏:Lettrisme、英:Lettrism)あるいは文字主義(もじしゅぎ)は、ルーマニア出身の詩人イジドール・イズーが第二次大戦直後にパリで創始した前衛的な芸術運動である。シュルレアリスムダダイズムの理念を継承し、詩作からはじまって映画、演劇、彫刻、絵画、写真、ダンスと多方面で既存の芸術形式を解体するラディカルな表現を追求した。主要なメンバーには他にモーリス・ルメートル(フランス語版)、ギー・ドゥボールらがいる。
レトリスムの運動はまず、言語を徹底的に破壊し音素のみを無意味に羅列した詩作にはじまった。のちに展開された絵画や彫刻の制作においては絵文字を多用し、これらの作品は「ハイパーグラフィー」と呼ばれた。イジドール・イズー監督の『涎と永遠についての概論』(1951年)、モーリス・ルメートル監督『映画はもう始まったか』(1951年)などの「ディスクレパン映画」(「ディスクレパン」は「矛盾した」「食い違った」の意)と呼ばれた映画では、既存の映像に関係のない詩の朗読や演説の音声を被せたり、切り刻みやスクラッチ、彩色で直接フィルムを加工したり、あるいは映画そのものや観客に対する直接的な批判を挿入したりといった試みが行われ、これらの表現はスタン・ブラッケージゴダールらにも影響を与えている。さらに独自のユートピア思想に基づく「青年の蜂起」と称する社会変革理論はパリの五月革命に大きな影響を与えた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%A0


シチュアシオニスト・インターナショナル/アンテルナシオナル・シチュアシオニスト - 現代美術用語辞典ver.2.0
http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB%EF%BC%8F%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%88

Pop Art - Independent Gallery

ポップ・アートは、第二次世界大戦後の美術史上に起こった最も重要な美術革命のひとつである。

英国とアメリカがポップ・アート発祥の中心となったが、その発祥状況やスタイルでは大きく異なった。

英国では1952年、ICA(現代芸術研究所)において設立されたインデペンデント・グループがブリティシュ・ポップ・アートの種をまいたとされている。このグループはパオロッツィやハミルトンなどのアーティストや、作家、建築家などが集まり、人類学やテクノロジー、科学、大衆文化などを話し合う場として設立された。最初のミーティングではエドゥアルド・パオロッツィのスクラップ・ブックが中心となった。それは大量消費財の広告や文学、サイエンス・フィクション、雑誌、コミック・ブックなどからの切り抜きを用いたコラージュで、パオロッツィは、その作品を「バンク」(BUNK)と名づけた。この作品は当時大きな論議を巻き起こした。

56年に彼らが企画した「これが明日だ」展(This is Tomorrow)では映画、「Forbidden Planet」の中に出てくるロビーと呼ばれるロボットや「七年目の浮気」(The Seven Year Itch)のマリリン・モンローなどを実物より大きなボード紙で制作した作品が展示された。このホワイトチャペル画廊で行われた展示用のポスター図鑑として、企画者の一人、ハミルトンが最初のポップ・コラージュを制作した。’これがポップ・アートの始まり’と言われる代表的作品のひとつである。

第二次世界大戦中、ロンドンはドイツ空軍の攻撃により破滅的なダメージを受けた。大半のものは破壊され物質不足が続く中で、アーティストたちは当然、それらがある豊かな国、アメリカから多くのインスピレーションを受けたのも当然であった。

57年にインデペンデント・グループの一人、リチャード・ハミルトンはポップ・アートとはポピュラー(大衆を対象にしたものであること)、一過性、消耗品、安価、大量生産、若者向け、ウイット、セクシー、ギミック、グラマー、ビッグビジネスと定義づけた。

1958年に発行された‘Architectural Digest’誌の中で英国の評論家、ローレンス・アローウェーは従来の抽象主義的表現派に対抗する戦後の消費文化を賞賛する新しいアートとしてポップ・アートと言う言葉を始めて文中で用いた。

http://www.independentgallery.co.uk/jp/pop/

The Constructed Photographs of Eiko Yamazawa - My Modern Age

http://quod.lib.umich.edu/t/tap/7977573.0002.207?view=text;rgn=main


◇ 遠近 / 山沢栄子 - 古書店 moderna

書名:遠近 Far and Near/Enkin
著者:山沢栄子/Eiko Yamazawa
出版:未来社
発行年:1962年

http://moderna.jp/?pid=51759882


アブストラクト写真集「私の現代」 / 山沢栄子 - ON THE BOOKS☆古本屋オンザブックス

■1976年の展覧会に併せて刊行された写真集です。16点の作品を収録。 定価2,800円。

■山沢 栄子・・やまざわ えいこ(1899年 - 1995年7月16日)は、大阪市出身の写真家。
日本の女性写真家のパイオニアである。関西を拠点にポートレートや広告写真の分野で活躍したが、1960年以降は抽象的な形態のモティーフを組み合わせた「What I'm doing」のシリーズを制作した。
ウィキペディアより)

■山沢写真研究所 / 1976年 / ソフトカバー / 36.5 x 26 x 0.4 cm / ページ数の表記なし / 日本語 / 状態 C:カバーに経年の点々としたシミがあります。特に裏表紙。(画像3枚目) ページまわりにもシミ、日ヤケがあります。

http://www.on-the-books.info/?pid=58535437


◇ 私の現代 / 山沢栄子 - 古書店 moderna

書名:私の現代 What I'm doing Positions and Directions/Watashi no Gendai
著者:山沢栄子/Eiko Yamazawa
出版:山沢栄子写真集刊行会
発行年:1982年

http://moderna.jp/?pid=51759748


◇ 山沢栄子 - 京都写真学校のブログ

1982年度の「なにわ塾」で、写真家山沢栄子さんの塾が開講され、ぼくは受講させていただきました。その時が、山沢さんとの出遭いです。ぼくが大阪を取材地として撮影を行っていたそのころ、いまでも懇意にしていただいている畑祥雄さんから、誘いをうけて、なにわ塾を受講することになりました。

なにわ塾、山沢栄子さんの講話を受けた塾生の名前をあげておきます。
新見輝人、池永一広、生原良幸、石川公宏、百々俊二、中川繁夫、畑祥雄、平井忍、
三橋正信、岡田悦子、岡本美知子、落合未和、木内登紀子、島田晴子、高橋千恵子、
能勢靖子、吉川恵子。

http://photoschool.269g.net/article/17706200.html


◇ 山沢栄子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%B2%A2%E6%A0%84%E5%AD%90

BIRDHEAD (B.2004) - ShanghART Gallery Shanghai, 香格纳画廊 上海

http://www.shanghartgallery.com/galleryarchive/artists/name/birdhead


◇ 鳥頭 BIRDHEAD 『新村 XIN CUN』 - 写真の鉛筆 THE PENCIL OF PHOTOGRAPH 現代写真インターネットマガジン

鳥頭(BIRDHEAD)は上海出身の宋涛(SONG Tao/ソン・タオ)と季炜莘(JI Weiyu/ジ・ウェイユィ)の二人が2004年に結成した写真家ユニットです。2005年から本格的な活動を開始し、写真展、インスタレーション、写真集などによって自身の活動を発表しています。バードヘッドの二人は1978年に始まった中国政府による改革開放以後生まれで、中国では80後(パーリンホウ)と呼ばれている世代であり、これからの動向が非常に注目されている世代です。2011年には国立新美術館で開催された『アーティスト・ファイル2011―現代の作家たち』に出品するなど国内外に活動の範囲を広げています。

http://blog.livedoor.jp/talbot2011/archives/54609048.html


◇ アーティスト・ファイル2011―現代の作家たち The NACT Annual Show of Contemporary Art - 国立新美術館 THE NATIONAL ART CENTER, TOKYO

バードヘッド
BIRDHEAD (鸟头)
ソン・タオ
SONG Tao (宋涛)(b.1979-)
上海(中国)に生まれる。現在、上海在住。
ジ・ウェイユィ 
JI Weiyu (季炜莘)(b.1980-)



上海(中国)に生まれる。現在、上海在住。
バードヘッドは、上海美術工芸学校出身のソン・タオとジ・ウェイユィによって、2004年に結成されたユニットです。2005年から本格的に活動を開始し、中国を拠点に様々な展覧会に参加。2007年には作品集「Birdhead 2006 Album」も発表しました。1980年代の改革開放政策以降、近代都市へと急激な変貌を遂げた上海の日常生活を、簡易なカメラで撮影するバードヘッド。「都市」が内包する混沌としたエネルギーとそこに暮らす若者たちの戸惑いや孤独をテーマに、中国の現状を素直に現している点が高く評価されており、近年は中国国内だけでなく欧米にも活躍の場を広げています。

http://www.nact.jp/exhibition_special/2011/af2011/

Trieste - Wikipedia, the free encyclopedia

http://en.wikipedia.org/wiki/Trieste


トリエステ - Wikipedia

トリエステ(伊: Trieste)は、イタリア共和国北東部にある都市で、その周辺地域を含む人口約20万人の基礎自治体コムーネ)。フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の州都であり、トリエステ自治県県都でもある。アドリア海に面した港湾都市で、スロベニアとの国境に位置している。
第一次世界大戦までは長らくオーストリア=ハンガリー帝国の統治下にあり、その重要都市として繁栄した。第一次世界大戦後にイタリア王国領となるが、第二次世界大戦後はイタリアとユーゴスラビアとの間で帰属をめぐる紛争が生じ、一時期は国際連合管理下の「トリエステ自由地域」が置かれていた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%86


◇ 未回収のイタリア - Wikipedia

未回収のイタリア(みかいしゅうのイタリア、イタリア語:Italia irredenta)は、19世紀において、イタリア王国が領土と主張した地域のうち、イタリア統一戦争後もオーストリア領内に残った地域である。南ティロル・トレンティーノ地方やトリエステ、イストリア地方、フィウーメ、ダルマツィア地方などの旧ヴェネツィア共和国領がそれである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AA%E5%9B%9E%E5%8F%8E%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2

サンカ (民俗学) - Wikipedia

サンカは、日本の山地や里周辺部で過去に見られたとされる不特定の人びとを指す言葉である。その言葉が指し示す範囲は、時代や使用者によって大きく変わり、語義を明確にすることは難しい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AB_(%E6%B0%91%E4%BF%97%E5%AD%A6)


マタギ - Wikipedia

マタギは、東北地方・北海道で古い方法を用いて集団で狩猟を行う者の集団。一般にはクマ獲り猟師として知られるが獲物はクマだけではない(後述)。古くは山立(やまだち)といった。特に青森県秋田県マタギが有名である。その歴史は平安時代にまで遡るが、近代的な装備の狩猟者(ハンター)とは異なることに注意する必要がある。森林の減少やカモシカの禁猟化により、本来的なマタギ猟を行う者は減少している。
マタギの語源は諸説あって不明である。最も有力なものは、アイヌ語で「冬の人」・狩猟を意味するマタンギ・マタンギトノがなまったものだという説である。ただし、日本語のマタギという語が先にあり、この語がアイヌ語に取り入れられたという説もある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%AE