Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

村上隆と知的財産権(とサド裁判)・・・・・皮肉な事態

「いずれにせよ、ひとつ言えることは(そして残念なことは)、このニュースを見て僕のなかでDOB君のオーラが消えてしまったことです。実は、僕の自宅のリビングには、DOB君の版画がここ数年かかっていました。僕にとってDOB君のシリーズは、村上さんの価値転倒の戦略を代表する作品だったからです。しかし、そろそろレイアウトを再考すべきかもしれません……。」(東浩紀
◇ kajougenron hiroki azuma blog
http://www.hirokiazuma.com/archives/000214.html


「アートビジネスと様々なビジネスの境界域で色々やっていたり、
当人がルイ・ヴィトンともコラボレーションしている村上隆さんとしては
ひょっとしたらこの裁判自体も(昔文学であった「サド裁判」のように)
「コンセプト」の問題まで含めて色々やりたかったのかもしれませんが、
日本のこの手の民事裁判で争う場合は、コンセプトや思想などの
文化的なものはあらかた無視されることになる場合が多いです。」(id:workshop氏)
◇ workshop PCエンジンおしゃれ計画
http://d.hatena.ne.jp/workshop/20060425#p2


※以下、ウィキペディアWikipedia)の項目「澁澤龍彦」より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%81%E6%BE%A4%E9%BE%8D%E5%BD%A6
マルキ・ド・サドを日本に紹介した人物として知られ、1959年にサドの『悪徳の栄え・続』を現代思潮社から翻訳出版すると、これを巡って猥褻文書販売および同所持の容疑で1961年に在宅起訴され、所謂サド裁判の被告人となった。このときの特別弁護人に埴谷雄高遠藤周作白井健三郎、弁護側証人として大岡昇平吉本隆明大江健三郎、奥野健夫、栗田勇、森本和夫など。澁澤はこの裁判について「勝敗は問題にせず、一つのお祭り騒ぎとして、なるべくおもしろくやる」との方針を立てていたため最初から真剣に争う気がなく、「寝坊した」と称して裁判に遅刻したことまであったため、弁護側から怒りを買うことがあった。1962年に東京地裁で無罪判決が出たが、検事控訴で高裁から最高裁まで争った末、1969年に澁澤側の有罪が確定し、7万円の罰金刑を受けた。このとき澁澤はマスコミの取材に答えて「たった7万円、人を馬鹿にしてますよ。3年くらいは(懲役刑を)食うと思ってたんだ」「7万円くらいだったら、何回だってまた出しますよ」と語った。


(参考1)阿部和重常盤響の場合
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060227#p11
(参考2)ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記
村上隆のDOBのモデルってミッキーマウスじゃないの?」
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060425
(参考3)おれはおまえのパパじゃない
著作権とお金とアートをめぐるお話し」
http://d.hatena.ne.jp/kowagari/20060425/1145953254
(参考4)Copy & Copyright Diary
村上隆氏と横尾忠則氏」
http://d.hatena.ne.jp/copyright/20060426


(関連リンク追加 2006.05.03)
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060501#p10
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060501#p11