Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

東浩紀 北田暁大『東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム』より

北田 なんかね、仕方のないことなんだけれども、政治的なニュアンスを持つ都市論とか、都市の美観論とかって、どうしても疎外論の構図に近接していっちゃうじゃないですか。「生活世界の都市空間が権力によって浸食されている」とか、「無節操な資本の力、私的所有の横暴が共同主観的に構成されるランドスケープを破壊する」とかね。

東 難しい問題ですが、実感としては分かります。もともと、都市に物語をつけて消費するといっても、そんな物語がどこまで届いていたか。北田さんが『広告都市・東京』で描き出したようなパルコ=西武の戦略にしても、その高度な意図が分からなかった中学生の僕は、まったく別の消費の素材として受け取っていた。都市ってそういうもので、だれもが同じひとつの物語を受容するわけではなく、消費の仕方はひとそれぞれなんですよ。僕の本だと「データベース的」となるわけですが。だから逆に物語分析をとおして都市分析を行う手法には限界がある。
北田 うん、それはそのとおりです。ただ、同じ物語を受容するわけじゃないにしても、物語の消費の形式は在る程度、社会的に構成・共有されるものじゃないですか。ビックリマン・シールの「中身」と、それによって作られる「物語」は多用であっても、「断片的なパーツから物語を構成する」という行為のフォーマットは共有されるというのと同じように。

東 僕はいまは、そちらの問題に興味があるんです。それで、コンベンションの根拠とは何かといったら、最終的には世代、つまり生殖の問題だと思うんです。もし人間が遺伝子のスープから単体として個として生まれ、そして個として死んでいくんだったら、コンベンションについて考える必要はない。個と社会だけを考えればいい。けれどもそこに、世代、親子という問題が入るので、コンベンションについて考えることが重要になる。主体の自発的な社会契約とは別の層でネイションについて考えるとき、ここらへんが大事なのではないかという直観があります。
北田 個体と社会という枠組みで考えているかぎりは、ネイション、というか世代を超えて同一性を保持する何ものかはどこまでも相対化することができる。しかし、世代間で継承されるコンベンション、あるいはコンベンションにもとづく自生的な秩序のことを考えると、「個と社会」という共時的に見える枠組みを解除して、通時的なネイションについて考えざるをえない、と。ああ、そうか、その話は都市の再生産、サステナビリティの話に繋がっていくわけだ。

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◇ 私も東京から考える - 東京猫の散歩と昼寝
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宣長から「言霊」? - 葉っぱの「歩行と記憶」
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◇ 東京から考える - short hope
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◇「東京から考える」を東京で考える - coochoo the MAGIC
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◇(地方と)「東京」から考える - muse-A-muse 2nd
 http://muse-a-muse.seesaa.net/article/37783115.html
◇ 安全清潔って動物的か?
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◇ 東京から考える。(東浩紀北田暁大) - ももち ど ぶろぐ
 http://www.momoti.com/blog/2007/04/post_581.html


東浩紀×仲俣暁生トークセッション「神保町から東京を考える」 - 英国紳士の習慣日記
 http://d.hatena.ne.jp/pggm/20070318#p2
東浩紀氏×仲俣暁生トークセッション「神保町から〈東京〉を考える」 参加 - Kawakita on the Web
 http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20070317#p1
◇ 工学化する都市・生・文化 東浩紀仲俣暁生(新潮2007年6月号)
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