それらのモチーフが、毎日少しづつ形を変化させながら、繰り返し撮られることで、複製芸術である写真だからこそ、反対に意識されてくる一回性が作品のテーマとして浮上して来る。フリードランダーのプリントが、まるでアウラの消失に抵抗するかのようにして、その都度立ち現れて来るように感じられるのはそのためである。そこでは、フランシス・ベーコンがベラスケスなどの中に見い出した、イメージの記憶と反復の問題が、異なるメティエを通して回帰している。
http://d.hatena.ne.jp/uedakazuhiko/20070524
上田和彦さんによる先日のリー・フリードランダー展についての記述。
(関連リンク http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20070411 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070502#p2)
いずれ下記の2冊を読んでおきたいと思います。
◇ デイヴィッド・シルヴェスター『肉への慈悲─フランシス・ベイコン・インタヴュー』
http://www.amazon.co.jp/dp/4480872817
◇ ジル・ドゥルーズ『感覚の論理─画家フランシス・ベーコン論』
http://www.amazon.co.jp/dp/4588158015
上田さんの記述ですが、結びの部分についてはやや疑問が残ります。
ウィノグランドほどではないにしても、
フリードランダーも枚数(本数)を撮る作家だったと記憶しています。