Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

2005年9月のメモ(mixi)より

ついで、暗闇の中に夢がくゆり、ゆらめく光線の蜃気楼にふれて燃えあがる。スクリーンの上の出来事は完全に生きうつしとはいえない、貧乏人のために、夢のために、死者のために、大きな部分がぼかされている。そいつを、その夢を急いで胸いっぱいに詰め込んでおかねばならない。一歩映画館を出れば待ち受けている人生を乗り切るために、恐ろしい事件や人間のあいだでまた幾日も生き続けるために。それらの夢の中からいちばん魂を温めてくれるものを選り出すのだ。
セリーヌ生田耕作訳『夜の果てへの旅』文春文庫より)


ふたつの世界大戦の間にあって、
我々が生きる世界に充満する欺瞞の数々を呪詛し続けた
フランスの作家、ルイ=フェルディナン・セリーヌ
彼が映画について記した一節です。


ところで、現在でいう「映画」のことを、
映画の黎明期では「劇映画」と呼び、
「非劇映画」(記録映画・実験映画・教育映画など)と
明確に区分していたそうです。
では、いつから「劇映画」から「劇」がはずされ、
一般通念としての「映画」という言葉が
流通するようになったのでしょうか。
それは、現代人の映像に対する感受性とは
無縁ではないでしょう。
また、現代人の日常感覚とも。