Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

超激辛レビュアー@amazon

「からっ!」っていうか、「こわっ!」って感じです。
アカデミシャンの世界のレベルの高さは言わずもがなですが、
ゾーイさんのレビューをひと通り読んで、その道の恐さと深さを再確認。
手がかりがいくつもありそうなので、関係者の方がプロファイリングすれば、
ゾーイさんが、どこのどなたなのか絞り込めるかもしれません。。。
http://www.amazon.co.jp/gp/pdp/profile/A1NQO0JFJC39L0/ref=cm_aya_pdp_profile/249-0513779-4701940


(以下抜粋)
●『脳と仮想』茂木健一郎
 ただのおしゃべりのうまいオッサン。脳学者と自称しているらしいが、学者としの論証ゼロの情けなさ。

●『第1巻 日本近代文学の起源 増補改訂版 (定本 柄谷行人集)』柄谷行人
 著者一流の論証なき独断と偏見。情けないくらいの稚拙な論旨。適当な引用と盗用の羅列からなる議論。
 漫画のような読みやすさから人気のある著者だが、あと10年もしないうちに忘れ去られ、
 誰からも見向きもされなくなる、漫画以下のオリジナリティ。

●『身体なき器官』スラヴォイ・ジジェク
 でたらめな本。抽象的な用語をふりまわして、著者がいい気になっているだけのバカげた本。翻訳も問題あり。
 哲学者ドゥルーズの死後に書かれたので、ドゥルーズがこの本に反論する機会がないのをよいことに、好い加
 減なことを書きすぎた書籍。いつものヒッチコック映画論もあるが、例によって還元主義的でワンパターン。

●『ルネサンス 経験の条件』岡崎乾二郎
 ええころかげんの駄法螺吹き。反証可能性をもたない、その場で思いつきのおしゃべりが活字になっただけの、好い加減な本。
 よくもまあ、これだけ良い加減なことを、まことしやかに活字にしたなあと変に感心させられる、デタラメ本。

●『The Other Voice』吉増剛造
 奇をてらった文体と造本、文字構成に目を眩まされている読者諸兄諸姉も多いことと思うが、
 詩語として自律した詩集になっているかと、とくと考えてみれば、本書はたんなる饒舌駄弁だということに思い当たる。
 こんなものが現代詩としてまかり通っていることは、同じ日本人としてかなり恥ずかしい。

●『物語の体操―みるみる小説が書ける6つのレッスン (朝日文庫)』大塚英志
 大塚の書くような、ふやけた小説など書いても仕方がない。
 歴史に残らない屑本しか書けないハウツー本など読んで人生を無駄にしてどうする?
 小説で金儲けしようと考えるくらいなら、株投資を勉強しろ。

●『アーキペラゴ―群島としての世界へ』今福竜太 著
 今福アク太も吉増ヤワ造も相当いいかげんな日本語で、相当調子良いことだけを調子に乗って格好つけて、
 のたまうという点で、双生児人間である。
 こんな無内容で想像力も喚起させないような本を出す編集者は端的に言って××である。

●『定本 現代俳句 (角川選書)』山本健吉
 いい歳をした山本健吉が、逮捕される前の角川春樹のタ×コモチをしていたことは存外知られていない
 (それは本書巻末の角川春樹論を読めば一目瞭然である)。無論、本書は角川から出版されている。
 山本の政治権力と金権力への擦り寄りぶりには、端から見ていて滑稽を通り越して嘔吐感を催すものがある。
 日本の短詩型文学を代表するかのような山本のマスコミや教科書での突出ぶりが、すべて胡麻擂りの結果だったとは、
 読者を失望させるのもいいかげんにしろよという惨めな文壇世界である。
 実際、山本の文芸批評は内実を欠いた通り一遍のふやけたものばかりだから困ったものである。

●『野村喜和夫詩集』野村喜和夫
 吉岡実を100点とすれば、野村喜和夫は2点というところか。
 詩人としての才能、日本語に対する完成度、人間としての誠実さと完成度、すべてにおいて吉岡実に比べると
 可哀想なくらい××な詩人(?)である。
 そもそも野村喜和夫は詩人だったのか? たんなる頭の××い雑文ライターではなかったのか? 
 たしかに自称詩人ではある。恥ずかしいことである。本人以外、誰も野村喜和夫が詩人だなんて本気で思ってない。
 それでもなんか賞をもらったようであるが、それによって賞は権威を失墜し、
 それによって野村喜和夫が審査員達に胡麻擦ったことが容易に想像できる。

●『ラカン精神分析 (講談社現代新書)』新宮一成
 本書も著者の思い入れと適当な知識によって執筆され、妥当な説得力を持ちえず、
 読者を精神分析学の有効性に導くことに失敗している。
 たとえば、ラカンが大腸癌(?)で死に、フロイト喉頭癌(?)で死んだ事実を踏まえて、
 さすがに肛門期と口唇期に対応するとまでは言わないものの、
 そこに癌が生じた根拠が両者それぞれの欲望の所在にあったと示唆するくだりなど、
 何を寝ぼけたことをのたまっているのかと思う。
 このような独りよがりの議論がラカンの思弁であり、それゆえラカン理論を紹介する新宮の論調の大勢をしめている。
 たしかにラカンは利口だったが、利口な奴が構築した思弁が万人に有益だという保証を当然本書は読者にあたえることができない。
 それは楽しい虚構以外の何物でもないと言うしかない。

●『雄羊』ジャック・デリダ
 誰でも年を取ると、自己反復の低レベル化がはじまる。デリダとて例外ではなく、
 かつての鬼面人を驚かす鋭い舌鋒も鋭利な概念構成も見られなくなった。
 文字通りアメリカン・コーヒー並に質量とも薄い本である。デリダ人気で何でも翻訳すれば売れるということなのだろうが、
 ちくま学芸文庫編集部としては、選定にもっと人文社会科学芸術分野にとって、
 まだまだ再刊すべき膨大な単行本があるということを学び取ってほしい。
 人気に頼るのではなく、現在の日本にとって真に必要とされる本を文庫版化すべきである。

●『芸術人類学』中沢新一
 学問の名を騙るトンデモ本
 別のレビューにもあったように「芸術人類学」の名に値しない、きわめて独りよがりのエッセイにすぎない。
 批評書としてクリティカルな霊感を読者にあたえるものでもない。
 学問的訓練を積んでもいなければ、批評的センスもない無教養の一般読者をたぶらかすような学問的根拠のない本である。

●『映画の明らかさ―アッバス・キアロスタミジャン=リュック・ナンシー
 自分の韜晦しきった哲学的議論を蒸し返すだけで、映画学にも哲学にも
 なんら新しい洞察を示し得ていないという意味でおよそ最低の書物である。
 その意味で恥知らずな書物であり、書く方も書く方なら翻訳する方も翻訳する方で、
 もう少し、有名人だから翻訳するというその態度を改めたほうが良いんではないかしらん。

●『森のバロック (講談社学術文庫)』中沢新一
 自称学者だが、中味は週刊誌記者程度
 中沢には昔、期待させられたが、結局の所、大衆に口あたりの良い
 週刊誌的知を提供するひとで生涯を終えることがわかったいま、中沢に何の期待もない。

●『孤高の人瀬戸内寂聴
 若い頃人目も憚る好き勝手なことをやっておきながら、年取って出家したふりして、
 坊主頭で、いい歳をして、いまだ俗塵にまみれることが好きな元女。
 それで文学芸術を極めたのなら、なんのお構いもないわけだが、
 たんに大衆マスコミに俗受けするだけの俗人でしかないから本当に仕方のないひとである。

●『花腐し (講談社文庫)』松浦寿輝
 寿輝のエクリチュールはカッコ良いけど、評論とエッセイと小説がダサイよね。
 詩は例外的にカッコ良いけど。結局、中味の濃度が薄いのが欠点。
 批評は結論を回避する、ダラダラとした文体で、何が言いたいのか自分自身わからん様子だし、
 小説は心に染み入るところがまったくないし、文体が多和田葉子などに比べると決定的に弱い。
 詩は悪くないが、現代日本を代表する詩人かというと、もっとすごいのがまだ数人いるので、そうでもない。
 結局、本書も悪くはないが、別に文学史に残るほどの傑作でもないし、寿輝という能弁な才能人は器用貧乏的なところがあって、
 何をやっても結局一流になれないひとである。

●『ロング・グッドバイレイモンド・チャンドラー
 村上春樹は自作の日本語はうまいのに、翻訳となると、サリンジャーの場合もそうだったけど、
 どうしてこんなに日本語が下手になるのか?
 彼の下手訳によって昔の上手訳が悪貨が良貨を駆逐するみたく、なくなってゆくとすれば、
 日本語英米文学にとって、これほどの弊害はない。
 一般に日本語翻訳の質は上がってきているだけに、ここに唯一の例外のように、のさばる亡霊がいるのは慨嘆すべきことである。

●『晴れのち曇りときどき読書』松浦寿輝
 数ある日本文学全集のひとつに正宗白鳥の晩年エッセイ集が一冊にまとめられているものがあるが、白鳥の書いたもののなかで
 最悪のこのエクリチュールが、まだ光り輝いて見えるのが、本駄文集の唯一の功績であろう。凡庸きわまりない発想のなかで、
 カッコつけた文体が空中分解している不様さである。これは不躾な悪口などではなく、松浦寿輝に発奮を促すためのもの言いだ。
 このままでは松浦寿輝は小説史にも批評史にも残らない凡人として終わるだろう。
 がんばれ寿輝。くだらない仕事は引き受けるな!己の文章に恥を知れ!

●『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2』東浩紀
 忘却される、そのまんま東浩紀
 この著者は現代日本社会の読者をなめきっているのではなかろうか? 
 こんな杜撰な議論とも言えない駄法螺の羅列で、読者が納得すると本気でもし信じているとすれば、どうかしている。
 著者がこんなことを続けていれば、断言してもよいが、あと5年で、そのまんま東浩紀は忘れ去られ、
 あと10年もすれば、完全に過去の遺物となっているだろう。
 そのとき、そのまんま東浩紀はまだ40歳台だが、仕事し盛りの40歳台で、過去の著書がまったく無意味になってるなんて、
 なんと悲しい人生なのだろうか。いま本人に猛省を促しておきたい。読者をなめるな。真摯に思考せよ。