山下隆博さん(id:YaMaCtA)が、現在制作中の作品のポートフォリオを自身のサイトで公開しています。
インドの綿花栽培地帯を取材した写真から構成されたものです。
◇ Suicide Farmer's
http://no-title.co.uk/portfolio.html
http://no-title.co.uk/
正直申し上げますと、山下さんのはてな(http://d.hatena.ne.jp/YaMaCtA/)のこれまでの内容から、
山下さんの写真にはそれほど期待していませんでした。
もちろん、誰だって気分が沈むこともあれば、自虐的になることもあると思いますが、
私の個人的な経験から言うと、どの分野にも、
「泣き言」ばかり並べているような人に、本物が居たためしがないからです(中原昌也さんは除く)。
「たまたま」なのか、「とりわけ」なのか、写真やってる人にナイーブな方が多いからなのか何なのか、
写真家(?)のブログには泣き言系やポエム系がやたら多い。
それは、美術家の方のブログと比べてみればよくわかります。
よく言われるように、「覚悟のなさ」が、その主たる原因なのかもしれませんが。*1
で、話は戻って、山下隆博さんの「Suicide Famer's」です。
これが想像以上に良かったです。山下さんに対する先入観は、吹っ飛びました。
しかし、評価できるのは、あくまでも映像として、です。
観る者を十分に魅了する、写真としての美質を備えているとは思います。
珍しく、東京的日乗の相馬泰さんが、山下さんの写真を絶賛しているんですが(http://nitijyou.exblog.jp/6910645/)、
私は、相馬さんのように彼のドキュメンタリー写真を、手放しに賞賛することはできません。
むしろ、「これじゃあ、ダメだろう。」と思います。*2
理由は簡単です。ドキュメンタリー写真を名乗るなら、それが本当にドキュメンタリー写真としての力を発揮できるのか?
ということです。
山下さんの師である、鈴木邦弘さんのリチャード・アヴェドン式ポートレートとは真逆の、
渡邉博史さんの『私は毎日、天使を見ている。』を思わせるような、
ディファレンシャル・フォーカスの使い方とか、確かに上手いなと思います。
室内や日陰でのライティングにも、ひと工夫してるんでしょう。
相馬泰さんが褒めるのも無理はありません。
でも、やっぱりこれって、わざわざ海外に出掛けていって、よく言われているような「ドキュメンタリー写真」を撮り、
帰ってきて、その写真を新聞雑誌媒体などで発表するのを目指すんじゃなくて、
メーカー系ギャラリーで、申し訳程度のありがちな展示を組むような
ドキュメンタリー写真のクリシェから脱してないと思うんです。
私の言葉を使えば「インド小僧」問題です。
インド小僧。。。どうです。ダメな響きでしょう。
写真学校(写真学科)のセンセイたちは、なぜ、安易にインドや東南アジアに行って
現地で「被写体」を「ハンティング」して、エキゾチックな写真を
ドキュメンタリーの名のもとに撮り集めて(狩り集めて)くる生徒たちを、
厳しく指導しないんでしょうか?
それは、トレーニングだという位置づけなんでしょうか?
そこには、言い訳めいた奇妙なロジック(陳腐な自己肯定の繰り言)があるんでしょうか?
素人さんならまだしも、そこには専門家としての矜持がないんでしょうか?
インドは比較的近くて、物価が安くて、いいぞ。ってな話なんでしょうか?
インドがアルゼンチンの位置にあっても、物価が日本と同じでも、
わざわざ、そこを訪ねるんでしょうか? ……? ……?
私は、写真は基本的に、写真それだけでは、ドキュメンタリーにはならないと思っています。
中平卓馬さんが言うように、写真は「ドキュメント」ではあっても、それ単体では「ドキュメンタリー」にはなりません。
中平さんがかかわった沖縄の松永優裁判を思い起こせば明らかなように、それはコンテクストしだいなんです。
ドキュメンタリー写真には、コンテクストが必要です。それも明確な。
つまり、それ相応の文章(キャプション)なり何なり*3が伴わないと、
写真はドキュメンタリーとしては成立しないのです。
だから、たとえば、よくあるメーカー・ギャラリー系ドキュメンタリー写真(長い!)で、
この人は何がしたいんだろう(本当のところ、そのショボイねらいはじつに明白で、アイタタタなんですが)、
何も考えてないんじゃないのか、というような人の展示を見ればわかるように、
メーカー・ギャラリー系ドキュメンタリー写真家系の人々(さらに長っ!)は、
ドキュメンタリー写真にとって必要な、コンテクストの扱いがじつに粗雑です。
そうした人々は、コンテクストを動かしようのないもの、
誰もが否定できないものに設定します(正確には否定しづらいか?)。
ダメなドキュメンタリー写真家系の人々は、
それぞれの写真に写し取られた対象に固有のコンテクストの力を借りることによって、
観る者がテーマにアクセスできるよう見せ方を構成していくのではなく、
「人を殺してはいけません」「戦争はいけません」「平和な世の中をめざしましょう」
「人を欺いてはなりません」「お互いを尊重し愛し合いましょう」……といった、
何にでもあてはまるようなコンテクスト、というか、漠然としたムードに、
ベタベタに頼り切ってしまうような傾向があります。
しかし、それでは伝えたいことは伝わりません。
ごくごくありきたりの、うわっつらのカタルシスだけが、そのへんを行ったり来たりするだけでしょう。
テーマにさえアクセスできないわけだから、そこで問われている(はずの)問題に
何らかの動きや変化が生じるようなような契機が、そこに生起するはずもありません。
本来求められるべき訴求力が欠如しているからです。
先日のマル激トーク・オン・ディマンド「マイケル・ムーアは終わったのか」
[神保哲生×宮台真司×森達也(×町山智浩) http://www.videonews.com/on-demand/331340/001149.php]
に出てきた表現を借りれば、このテの写真は「木をゆさぶること」にすらなっていないのが問題なんです。
写真家本人は、「木をゆさぶ」っているつもりになって、一人で悦入してしまっているのかもしれませんが。
もっといえば、森達也さんの言うように、「木をゆさぶること」それだけでは、ドキュメンタリーにすらならないんです。
何かがドキュメンタリーとして成立し、作品として評価されるかどうかの、最初の条件すら満たしていない「ドキュメンタリー写真」。
いったい、その「ドキュメンタリー写真」って何なんでしょう??? 私には、その意味も価値もよくわかりません。
ドキュメンタリーの表現において、ほとんどのスチールは、ムービーに比べて2段階の遅延です。
どれだけ写真の世界が遅れてるんだよ、っていう話です。
おそらく山下隆博さん本人が、
取材不足、自分自身で納得のいっていない作品を公開することには抵抗がある。あるが、事象が事象だけに出来るだけ多くの方に知らせるという最たる目的をいち早く行う為にはやはりwebというものが一番適しているのではないのかと思い、今回公開させていただきます。
と、正直なところを語っているのは、私がここまで長々と書いてきたような問題点を、
たぶん皮膚感覚で(でたー!ドキュメンタリー系クリシェ)、もとい、
たぶん取材はもちろん写真を構成する過程で、感じ取っているからなのでしょう。
これを今のまま発表したところで、何かが変わるの? 誰かが救われるの?
ムービーで撮ったほうが、全然いいんじゃないの? と、いうふうな。
まだまだ書ききれないことがありますし、写真の撮り方の形式分析とかすれば、
延々続きそうになるので、このへんにしますが、
山下隆博さん、がんばってください!
まずは、木をゆさぶってください。
あと、王道的なドキュメンタリー写真だけじゃなくて、
ボリス・ミハイロフの『ケース・ヒストリー』*4なんかも、見て読んでおきましょう。
>>>蚊に刺されたようです(10W×1L)
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070910#p5
>>>蚊がうるさい件について(11W×1L)
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070911#p10
>>>アルファ亜インテリやのぉ〜!(by 岩鬼正美)
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070912#p1
>>>で、テメェ棚上げオヤジは、どうなった?
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070912#p2
>>>たとえば
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070913#p2
>>>思想信条は部分的にしか重なり合わずとも、
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070913#p3
>>>彼にできること/彼が望むこと
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070913#p4
※※※
http://d.hatena.ne.jp/n-291/comment?date=20070913#c
*1:『月光20号』(2002年/南原企画)掲載──金村修INTERVIEWより
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070212#p2
“金村 そうです。日本から参加した写真家は、僕の他にはホンマタカシと横溝シズカの三人。
でも写真的な発想というのは、すでに現代美術に入ってますからね。
写真家が現代美術の展覧会に参加するということは、ごく当然のことになってくると思います。
しかし一般に現代美術の人たちって、真面目ですね。
シリアスというか、お金が儲かる仕事ではない、ということかもしれないけど(笑)。
その点、写真家は、名前がそこそこ売れれば、お金になりますから堕落しやすい(笑)。”
*2:たとえ、メッコール・クラブ相模原本部(?)界隈で「よっしゃよっしゃOKOK」だとしても。
*3:直接的な言葉ではない部分、この「何なり」をどう扱うか、どう考えるかは、ドキュメンタリー写真のみならず、
表現としての写真にとっても、とても重要なポイントだと思います。
*4:私自身、一般的に流布している言説を読んだのと、写真と写真の構成の仕方を検討しただけで、
テキストもからめて、ちゃんと考察していないので、あまりエラそうなことはいえませんが。
Boris Mikhailov "Case History"
http://schaden.com/book/MikBorCas00933.html
http://www.saatchi-gallery.co.uk/artists/boris_mikhailov.htm