Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

公開対談「いかにして消尽したものになるか……死の贈与と生の贈与」澤野雅樹×萱野稔人 - 雑誌『談』編集長によるBlog

・人々は、なぜこうまで有用性や合理性にこだわるのでしょうか。意味のあること、役に立つこと、価値のあることを金科玉条のごとく死守する私たち。まるで取り憑かれたように理性を最大限発揮し、知力も体力も、そして感性までもすり減らしながら意味生産のレールをひたすら走り続けます。そして、意味がない、役に立たない、価値がないものに対しては、容赦なく切り捨てる。無意味であることは、それだけで悪であるような空気すら世の中には漂っています。しかし、本当にそうでしょうか。有用でないもの、役に立たないものは、本当に無意味なのでしょうか。
現代人のこの有用性、合理性への信仰(!)は言い換えれば「意味の病い」です。意味の病い、それは知、理性への隷属であり、本源的な意味での生きる自由からの退却です。今こそ、無意味を志向することの自由、無意味なるものの意味を考え直す時ではないでしょうか。

・澤野氏は、「使えないから面白い」、20世紀の偉大なる使えない作家たちと共に、「不毛」の素晴らしさを完膚なきまでに論証し、「有用性」ではなく、「情欲」の資本主義を提唱します。消尽したものの優美さ、役立たずのエレガントこそ、21世紀を生き抜く者たちの倫理であると。
一方、国家をなりたたせ存在させているのは、〈権利〉をめぐる暴力の運動であり、その運動が最初におこなうのは、〈権利〉にもとづかない暴力を取り締まるためにみずからに〈暴力への権利〉を付与することだと萱野氏は言います。暴力装置としての国家から、われわれはいかにして逃走しうるか。贈与/消尽に、その突破口を見出せるとしたら……。
ドゥルーズガタリ、そしてフーコーを参照しながら、無償性、消尽、暴力、贈与を手掛かりに、「無意味なるもの」「かそけきもの」「寄る辺無きもの」について、徹底的に語り合っていただきます。

http://dan21.livedoor.biz/archives/2007-09.html#20070918


■日時 2007年10月2日(火)19時スタート(開場18時より)
■会場 サウンド・イメージ研究所ラボ・カフェ・ズミ(吉祥寺駅公園口から徒歩5分)
■入場料 無料(ただし要ドリンク・オーダー)
■定員 15名 先着順(定員に達し次第締め切り)
■受付 メール(対談参加希望の旨、氏名、連絡先を明記し→oubo@dan21.com へ)