Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

宮台真司さんの論考(イントロダクションになりそうな部分を抜粋)

◇ 公共機関のために準備中の文章です。誤りのご指摘やご意見をお待ちします。第1部 - MIYADAI.com Blog

■日本でニート概念が誤解され、「社会の問題」というより「若者の問題」として理解された背景に、二つの要因を指摘できよう。第一は、日本においてはニート問題が議論される直前まで、フリーター問題がいわば「怠業批判」として議論されていたこと。第二は、「近代社会として望ましい社会の在り方」という観念が我が国に乏しいことである。
■英国がニートを問題化した背景には、新自由主義政策で知られるサッチャー政権の時代から人口に膾炙した「能動的市民社会性」active citizenshipの概念がある。今日のグローバル化をもたらした市場原理主義の、元凶として批判されがちな新自由主義だが、新自由主義はそもそも市場原理主義では全くない。能動的市民社会性の概念を軸に説明しよう。

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◇ 公共機関のために準備中の文章です。誤りのご指摘などお待ちします。第2部【上の第1部に続きます】 - MIYADAI.com Blog

■この論争は「構造主義による実存主義への批判」のエポックとして有名だが、そうした学問的意義とは別に、フーコーによる告発が「自由や主体性に見えるものは、どこまでも見せ掛けに過ぎない」という形式をとることが注目されなければならない。というのは、同時代の映画や演劇や小説などの表現に、似た形式の告発が陸続と登場するからである。
■この種の告発は、政治的な闘争としては「リベラルや左翼に見えるものも、見せ掛けに過ぎない」という形式をとった。具体的には、対外的な形では、ソ連スターリン批判への連帯や中国の文化大革命への連帯、対内的な形では、リベラルないし左翼に見える知識人ないし大学人への批判--サルトル批判であり丸山眞男批判であり--という形をとった。
社会学的には、これら批判の個別的な中身よりも、批判の形式にみられる同一性が注目されよう。結論を言えば、これら同時多発的現象は社会学アノミー理論によって説明できる。戦後復興や経済成長--都市化と郊外化--によって「豊か」で「自由」で「主体的」になった筈が、何か決定的に「期待外れ」だったという共通体験があった、と思われる。
■この「期待外れ」とは、厳密に言えば「再帰性への気づき」であった。〈生活世界〉を生きる「我々」の幸いのために〈システム〉があるはずだったのに、気がついてみると、何が〈生活世界〉なのか、「我々」とは誰なのか、幸いとは何なのかを含め、全てが〈システム〉の生成物に過ぎないという「〈システム〉のマッチポンプ」への気づきである。

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