Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

左翼運動としてのフリチベ? - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

とは決して字義通りには云ってないのだが、大澤真幸さんの「左翼はなぜ勝てないのか」(『中日新聞』「論壇時評」2008年7月29日、30日初出、http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/adagio/sayoku.htmより孫引き)にひっかかった。そこでの大澤氏のチベット騒乱への反応には肯取できないものを感じた。少し長いが引用する。

そして私がもっとも疑問を感じるのは、たとえそれがナルシシズムから来るものであることを認めるとして――私個人がそうは考えないことは既に述べた――チベット支援活動の根底に大澤氏がみている心性を左翼的と名指す意義である。私は諸外国のチベット支援活動の状況に必ずしも詳しいわけではなく、大澤氏が最初「外国のメディア」のものとして語り始めたチベット支援活動とその心性の関係を突然日本のそれにも及ぼすロジックも理解していないので、これを日本の状況からだけ語り起こして反駁することに意味があるのかはわからないのだが、日本のチベット支援活動は必ずしも左翼運動とかかわりない。むしろ旧来の左翼運動関係者はほとんど入り込んでいないし、あちらでも興味を持っていないようにも見える。むしろ、右翼的な、というよりはナショナリズムに強い同情をもっている人の存在がちらつくことが多く、ついで政治運動ということではないけれどもオルタナティブ的なものに関心を持っている人がいて(それはある程度文化相対主義やさらにはフリーソートのようなものに関心をもつ人たちとつながる)、そしてそれ以上に既存の政治運動や政治思想との距離を置きたがっている人の数が大きいのではないかと、これは統計を取ったわけではなく私が実際に接した人たちからそう思うだけだが、感じている。チベット支援活動は、日本に限って云えば、左右の対立とは違うところで形成されている。そういう人たちは、チベット支援活動が「政治運動」だということも否定する。何人かとそのことで議論をしたことがあるのだが、彼らにとってはそれは「人権活動」であり「政治活動」ではないのだという。これがある種の心情主義から来ていることを私は否定しないし(肯定もしない)、そしてそれをナルシシズムと呼ぶことにも心情であることを否定しない限りで退けないのだが、しかしそれに左翼的という言葉を関する意味があるのだろうか? おおよそ左翼的なるものがあるとして、それへの罵声という以上に、そのラベルは意味をもたないのではないだろうか。つまり、ここでの「左翼的」は、その党派的エクリチュールを共有するサークル内でのみ通交する枕詞でしかないように思える。

http://d.hatena.ne.jp/Britty/20080815#p3
大澤真幸さんの"「左翼はなぜ勝てないのか」(『中日新聞』「論壇時評」2008年7月29日、30日初出、
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/adagio/sayoku.htmより孫引き)"での、論理の飛躍と不当な一般化が指摘されています。


大澤真幸「資本主義を超える普遍性を求めて」
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/adagio/shihon.htm


>>>大澤真幸さん×東浩紀さん×大澤信亮さん
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080822#p6