Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

第10回企画展 「アヴァン=ポップ」ストーリー・オブ・マーク・アメリカ 1993-2001 - 文化庁メディア芸術プラザ

「アヴァン=ポップ宣言:10の短い核心」
 '80年代の後半に、私は『ブラック・アイス/Black Ice』という実験的文芸誌の編集の仕事を引き継いだ。この文芸誌が万人受けするものではない、ということはわかっていたし、そのつもりだった。しかし、それがアンダーグラウンドの文化人のネット・ワークの間で広く出回ることは、誰にも止めることができなかった。もし万人のためのものでなかったとしたら、つまりそれは万人のようでない、ほかとは違っているということであり、このオルタナティブ・ライティングは、どっちかと言えば文化人のためのものである、ということになってしまったのである(確かにそうだったのだが)。この『ブラック・アイス』は全く新しい読者を獲得することとなり、彼等は一瞬にして、文芸や芸術的な感性と深く結びついたのである。

 また、伝統に反逆する伝統を備えたアヴァン・ギャルドとも結びつき、デジタル・ポップ・カルチャーというウィルスのようなものの影響力とも結びついた。

 この、意図的な芸術性とメディア・リテラシーの意外な組み合わせから、アヴァン=ポップ現象として知られるようになるものが生まれたのである。

 アヴァン=ポップ宣言(この宣言自体は、モダニスト的なやり方に逆戻りしているのだが)の中で私は、自分にこう問い掛けたことがある。「未来派の人々が、情報ハイウェイを体験していたらどうなっていただろか。」と。

 「情報ハイウェイ」という言葉は、ナムジュン・パイクのさり気ない台詞を借りて文化の中に注入され、アル・ゴアのような人間によって使われるようになった言葉である。この言葉は、アヴァン=ポップの(反)美意識の中に再び取り入れられ、世界に影響を及ぼすようになった(旧共産圏諸国を含む10カ国語に翻訳された)。

 「インターネットのマリネッティ」と、イタリアの雑誌は私の作品を評した。言語/音楽/ネット・アートはまさに生まれようとしており、アヴァン=ポップは、後に作品がネット・アート、ウェブ・アート、インターネット・アート、I−アートなどのさまざまな呼び方のできるものの出現を促した実践者、理論家などと結びついていった。

 この新しい形のアートにオンライン・ミーティングの場を提供したのが、『オルト=エクス』であった。『オルト=エクス』は、1993年に立ち上げられたときはwww.marketplace.comに存在していた(これは、ドメインネーム一つで数百万ドル稼げるようになるずっと前のことである)が、それからaltx.comに移った。「モザイク」のようなブラウザが発表されると、『オルト=エクス』は、現在ではメインストリームに準じるものとなったアヴァン=ポップ現象の最大の活動拠点となった。この現象は、ネットワークに限定されたものとして花開いていったが、ネットの専門家によると、アート、文芸、出版、展示会の世界の次なる時代が一気に切り開かれていくきっかけになったという。矛盾点を抱えつつ、時には作家、アーティスト、評論家、美術館のディレクター、メインストリームの出版社といった誰をも苛立たせながらも。

 旧来の階級構造は、この現象が大衆文化の急速な変化に、大きな影響を与えていることを発見することになる。アーティストたちのネットワークは、すぐさまに独自の影響力を備えるようになり、文化の形を変え、しかも金をかけずにそれをできるようになった。それはまるで、コンセプチュアル・アート、文芸、ヴィジュアル・アート、パフォーマンス・アートが、リアルタイムのネットワークを通じて集められていき、誰もその勢いを止められない、というような現象だった。

「アヴァン=ポップ・マニフェスト
1. ポストモダンは終焉を迎え、埋葬が行われようとしている。そして次なるものが、カルチャー・イマジネーションの舞台に生まれつつある。私はこの新しい現象をアヴァン=ポップと呼ぶことを提唱する。

2. この新しい動きに対して、ポストモダニズムモダニズム構造主義ポスト構造主義シュールレアリズム、ダダイズム、未来主義、資本主義、そしてマルクス主義までもが影響を与えていたことは確かだが、大きな違いはアヴァン=ポップのアーティストたちは、マスメディアの申し子だということだ(親からの影響としてはマスメディアの方が実際の親よりも多く与えている)。初期のポストモダニストたちは、50年代から70年代の初めにかけて活発に活動していったが、彼らはパワフルなメディアジェニック・リアリティーの影響から逃れようと必死だった。メディアジェニック・リアリティーは、その頃社会的な交流の大部分が行われるように急速になりつつあった場である。ポストモダニズムは、初期の頃には、アカデミズムとエリートの美術界が前提要件とする自己制度化、相姦関係と関わることにこだわっていたが、結局はメディア・エンジンに乗っ取られ、殺され、その灰の中からアヴァン=ポップが生まれることになった。

3. アヴァン=ポップのアーティストたちは、メディア・カルチャーの存在と体験消化に想像力に与えるメディアの大きな影響力を頑固に否定する、アヴァン・ギャルドの動きを拒否しなければならなかった。同時に、彼らはマスメディアそのものによる誤謬に取り込まれ、何を目指しているのかを見失わないように努めなければならなかった。最も重要な方向性とは、文化のメインストリームに寄生虫のように入り込み、メジャーとマイナーの間に流れる悪い血を吸い出すことだった。メインストリームの腐った胸元に食いつくことにより、アヴァン=ポップのアーティストは異端作家となりつつある。異端児であることは確かだが、我々の目指すところは、ゆがめられたものに対峙し、あるがままのそれを愛する、規制にとらわれない冒険的な方法を発見することなのだ。後期のポストモダニズムも同じことに取り組んだが、メインストリームの細胞に直に食い込んで内部から崩壊を促すことには失敗した。しかしこれも、若者文化の台頭によって変化している。深いシニシズムを抱え、"dance of biz"の中での遊牧生活を送る彼らは、老朽化した資本主義の経済を壊すことも、また建てあげることもできるパワーをもっている。

 アヴァン=ポップのアーティストたちは、ポップ・カルチャーを歪めた死にいたる病に対する免疫を持っている。そして我々の集団生活の核を冒すこの恐ろしい病気(「情報病」)を癒す、不思議な調合薬を提供できるようになったのだ。

4. さて、アヴァン=ポップのアーティストたちは、Avant(前に立つ)の姿勢を保持する必要があることはよく理解している。それが彼らのクリエイティブな行為の原動力となり、またそれによってアヴァン=ポップの源泉であるアヴァン・ギャルドの系譜につながるのだ。また、彼らは現代のメディア・シーンで広く受け入れられている表現方法の枠の中で注目を集めるために、より幅広い戦略が重要だということに早くから気づいていた。我々の集団としての使命は、20世紀の多くのアーティストたちの作品から生み出された、ダークで、セクシーで、シュールで、かすかにアイロニーの利いた行為を介して、ポップ・カルチャーの焦点をラディカルに変化させることにある。それらのアーティストとは:マルセル・デュシャンジョン・ケージレニー・ブルース、レイモンド・フィーダーマン、ウィリアム・バロウズウィリアム・ギブスン、ロナルド・スケニック、キャシー・アッカー、二人のディヴィッド(クローネンバーグとリンチ)のようなアーティストたち、フルクサス、シチュアシオニスム、レトリスムヴードゥー信仰のようなアート・ムーヴメント、そしてセックス・ピストルズ、ペレ・ウブ、ボング・ウォーター、タックヘッド、ザ・ブリーダーズ、プッシー・ガロアフランク・ザッパソニック・ユースミニストリー、ジェインズ・アディクション、タキシード・ムーンやザ・レジデンツを含む多数のロック・バンドである。

 急速に成長してきたアヴァン=ポップのアーティストたちは、この胸が悪くなるような商業主義に汚染されたせせこましい文化を、官能的で、くらくらするような、エキゾチックでネットワーク化されたアヴァン=ポップに急激に変化させようと奮闘している。一つの方法は、ニッチ・コミュニティーを作り、広げていくことだろう。ニッチ・コミュニティーは、ジーンの世界ではすでに起こっていることだが、収斂性の電子環境によってヴァーチャルなコミュニティーとなっていくに違いない。アヴァン=ポップのアーティストたちと周辺のネットワークは、グループで出版される電子出版物、個人のクリエイティブ作品、マニフェスト、ライブのオンライン読み物、マルチメディア・インタラクティブハイパーテキスト、会議などを継続的に交流させ、増やしていくことで、前時代の名残を消し去ることができる。前の時代は、個人のアーティスト、作家たちが美しいオリジナル作品を作り、何が適切で何がそうでないかを決め付けるエリートの美術界とそのお友達によって主に消費される世界だったのである。

 文壇? 美術界? そんなものは無視すればいい。アヴァン=ポップのアーティストは、お互いの経験知をカオスのエネルギーの波のようにうねらせ、テキストの血の中でぶつけ合わせ、混ぜ合わせる。次々にクリエイティブな作品が集められて、電子カルトの領域を洪水のように浸すのだ。そこにはアンチ・エスタブリッシュメントのエネルギーが隠れていて、我々の書いたものを伝達し、それと対話する方法を永遠に変えてしまうのである。

5. アヴァン=ポップのアーティストたちは、新しい電子時代を大いに歓迎している。それによって同じ志をもち、通じ合い、協力できる読者たちを見つける機会が大幅に増える。ライティングは、作家が独りでキーボードの前に座り、いつの日か編集者かエージェントか出版者を見つけて彼等が誇大広告をもって商業文学文化に乗せてくれることを願っている時代から離れていっている。ライティングの未来は、むしろマルチメディアを使った共同執筆の方向へ向かい、千人とまでいかなくても百人単位でそれぞれのニッチ・コミュニティーの中で活発にネットワーキングする世界中の仲間たちと協力してできるようになるのだ。その価値は、それぞれのアーティストのグループがどのようにアクセスしやすいものを提供しているという評判にかかっている。「特別な情報の強壮剤」(Special Information Tonic)を、どのようにして、情報過多になっているその相手がどこにいようと伝えることができるか、という点にかかっているのだ(アヴァン=ポップを20世紀から21世紀にかけての運動にすることのもう一つのエキサイティングな点は、読者が即そこにいて世界中に広がっていて瞬時につながれることだ)。

 作家のうち、独りきりで書く古いスタイルに固執し、ニッチ・コミュニティーから疎外された人々は、ナノセカンドで動き回る運動からそのうち切り離されていき、自己の作品と疎外された方法が亀のようになるまで失速し、忘却に落ちていくことだろう。

 未来派の人たちが情報ハイウェイを使っていたとしたら、なにを成し遂げていたかを想像できるかい?

6. 「残酷劇場」を設立したアントナン・アルトーは、いつかこう言っていた。「私は演劇の敵である。常にそうだった。演劇を愛していながら、愛しているという理由で、同時に私は敵なのだ。」アヴァン=ポップのアーティストたちは、ポップ・カルチャーとアヴァン・ギャルドの敵である。どちらも、テレビで戦争が生中継されるような世界、経済的な格差があり、ナノセカンドという瞬く間にアイデンティティーが変わるような世界にはそぐわない。我々は、文化的な大量殺りくが行われてきた中から引き継がれたものを背負っている。それは、アルトーロートレアモン、ジャリ、ランボー未来派、シチュアシオニスム、フルクサス、抽象表現主義ヘンリー・ミラーガートルード・スタインウィリアム・バロウズ、テリー・サザン、サーフィクション、メタフィクションポストモダニズムのあらゆる細かい影響、お笑い番組、サタデーナイト・ライブ、ビーヴィスとバットヘッド、「スラッカー」、コルトレーンとマイルズとディズィーとドン・チェリーフェミニスト脱構築、などさまざまなものだ。

 必要となれば我々は何でも試すだろう。生ゴミのリサイクルのようなコンポスト作品にふさわしいと思えば、あなたの母親さえも殺してしまうだろう。

7. いいかげんな社会的現実など、どうでもいい。「昔、昔あるところに……」は、設定が過去であれ(歴史的フィクション)、現在であれ(コンテンポラリー・クラシック)、未来であれ(サイバーハイプ)、興味を引かなくなってしまっている。むしろ我々は、セックスや時間軸から解放された物語の悲惨な結末の繊細な世界に酔い、シンタックスを無視し、文章の枠組みを外し、商業的な基準に制約されないスリルを味わいたいのだ。急激にのしてきた若者文化が持つ、直感的な知性に従い非線形的な物語りの中をサーフィンする能力をみれば、アヴァン=ポップのアーティストたちの対象が誰なのかを示す一つの手がかりとなるだろう。データ・スーパーハイウェイは、高値をふっかける中間業者を排除して、近い将来機能し始めるだろう。アーティストたち自身の努力が報われるときが来るのだ。配給方法も次のようにドラスティックに変わるだろう。著者−エージェント−出版者−印刷所−流通業者−小売業者−消費者というものから、もっとシンプルで直接的な、著者(発信者)−インタラクティブな参加者(受信者)というものに、ラディカルに変化するであろう。

 アヴァン=ポップのアーティストたちと、彼等のワイルドなステーションIDの模造信号は、きみたちの自宅に今入り込もうとしている。ログオンして、クリックして、見つけてほしい。すべては君次第だ。君はアヴァン・ポップのアーティスト/参加者なのだから。

8. ポストモダニズムは、テキストの読み方を変えてしまった。ポストモダニズムの一番の主張はこうだった。私が誰であれ、あなたがたとえ誰であれテキストに盛り込むものとは関係なく自分勝手な意味を作り上げる間に、データをかき集めてテキストを作り上げてしまう、というものである。アヴァン=ポップ作品の未来は、さらに一歩進んだものとなるだろう。アヴァン=ポップの運動の中で一番の主張となっていくのは、こういうことだ。私が誰であれ、あなたが誰であれ、あなたという集団が作ったデータと常に対話し、そしてあなたという集団と対話し、お互いを補完し合うことによって、私は意味を見つけていく。

 情報社会ではすべての人が情報病に冒され、情報過多になる。その唯一の治療は、霊的な無意識から染み出す影響力の強い創造性に満ちたテキストの残渣でできた強壮剤だろう。芸術作品を作ることは、我々がたっぷりもっている生データを選択し、まとめ、表現することにさらにかかってくる。我々は、独自性が失われ、汚染されたヴァーチャル・リアリティーが、既製品となり消費のために用意されていることを痛感しているのだ! デュシャンがアーモリー・ショーでスキャンダルを起こしたことにならって、次の課題を自らに課さなければならない。
 1.文化のトイレを誰と共有しているのか?
 2.何でそれを満たそうとしているのか?

9. アヴァン=ポップのアーティストたちは、すでに多くの活動を始めている。すべてを列挙することはできないが、一部を紹介すると、マーク・レイナー、リカルド・コルテツ・クルツ、ウィリアム・ギブスン、ラリー・マカフィリー、ロナルド・スケニック、キム・ゴードン、ダグ・ライス、デレク・ペル、キム・ディール、ダリウス・ジェイムズ、ローレン・フェアバンクス、ジェロ・ビアフラ、リサ・サックドッグ、ユールダイス、ナイル・サザーン、巽孝之、ジョン・バージン、ジョン・シーリー、ブルース・スターリングリチャード・リンクレイター、ドン・ウェッブ、クァイ兄妹、ランス・オルセン、カート・ホワイト、ユージン・シャドブーン、キング・ミサイル、ディヴィッド・ブレアなど多数の人々の活動である。

10. アヴァン=ポップは、数年もの間知られないままに人々の関心と支持を集めていた。近年になり、サブポップ・オルタナティブ・ミュージックシーンや「ブラック・アイス」のようなオルタナティブ・ペーパーバック、“Wax, Or The Discovery of Television Among the Bees”のような低予算のオルタナティブ・メディアプロジェクトなどの成功がきっかけとなり、注目を集めるようになった。フィクションの未来は、『今』にある。それは、我々という最も活発な参画者が、自動的に古いものを無効にしてしまうからなのである。

コロラド州ボールダーにて

http://plaza.bunka.go.jp/bunka/museum/kikaku/exhibition10/japanese/ie/index.html
http://plaza.bunka.go.jp/bunka/museum/kikaku/exhibition10/index.html
http://plaza.bunka.go.jp/文化庁メディア芸術プラザ | TOP)
私自身はというと、「アヴァンギャルド(前衛)」というものに対しては、幾分懐疑的な立場です。


◇ ラリイ・マキャフリイ『アヴァン・ポップ 増補新版』(北星堂書店)
http://www.amazon.co.jp/dp/4590012251
http://www.bk1.jp/product/02800580


◇ アヴァン・ポップ再訪 - ぬる風呂
http://www.aivy.co.jp/BLOG_TEST/kobakoba/archives/002538.html


◇ ラリィ・マキャフリイ『アヴァン・ポップ』 - Flying to Wake Island
http://d.hatena.ne.jp/Thorn/20071110/p1


◇ 解説 アヴァン・ポップの娘 巽孝之 - 巽孝之全仕事
http://web.mita.keio.ac.jp/~tatsumi/html/zensigoto/avantpop.htm
http://web.mita.keio.ac.jp/~tatsumi/html/zensigoto/tatsumitop.htm
http://web.mita.keio.ac.jp/~tatsumi/慶應義塾大学巽ゼミ公式ホームページ)


◇ アヴァン・ポップ・スキャンダル
http://longfish.cute.coocan.jp/pages/2007/071103_scandal/


>>>positive01(書肆風の薔薇) - NoReadingIsMyOtherLife
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20081222#p10