Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

「からだの重心がおかしくなっている」−大橋可也&ダンサーズに関するメモ−(佐々木敦)

まったく偶々のことではあるのだが(だが「まったく偶々」などということは本当は無い)、大橋可也&ダンサーズについて考えようとしていた時に、渡辺玄英の新詩集『けるけるとケータイが鳴く』が届けられ、繙くうちに、そこに記されたことばたちが、今年の二月に吉祥寺シアターで『明晰の鎖』を観た際の紛れもない衝撃を、まざまざと思い出させた。冒頭に置いたのは同書からの引用だが、だってこれはまるで、あそこに在った「からだ」たちのようではないか?
私が『明晰の鎖』から受けた衝撃とは、まず第一に「即物性」ということだった。ビデオを多用しているのにもかかわらず、いやむしろ、ビデオキャメラという記録メディア/表象のテクノロジーを駆使しているからこそ、そこに恐ろしくリアルに立ち現われる、モノとしての身体、ブツとしての行為に、したたかに震撼させられた。
『明晰の鎖』を観た日のブログに、私はこう書いている(一部省略)。


大橋可也&ダンサーズ「明晰の鎖」とヤン・ファーブル「死の天使」をはしごしました。「明晰」は非常によかったです。僕なりに大橋さんが「ダンス」ということでやろうとしていることを、やっと理解できたような気がしました。身体と肉体の違いの問題、表象と上演の違いの問題、物語と物語る行為の違いの問題、などなどが、きわめて直截的に、即物的に、明晰に問われていました。前評判の高かった「死の天使」は、アンディ・ウォーホルが女性に狙撃されて一命を取り留めた事件を元にファーブルがテキストを書き、イヴァナ・ヨセクが4面のビデオスクリーンに現われるウィリアム・フォーサイスと共演する、というかなりアクロバティックな作品。当然のごとく完成度は異様に高かったのですが、僕的にはいささか文学的、芸術的に過ぎるような気もしてしまいました。観念的な「死」の(「死」の観念の)追求よりも、誰も知らない女が誰も知らない女を刺した、という、ある意味で極めて通俗的な出来事を、ひたすら強迫的に反復し続ける「明晰の鎖」の方に、リアリティを感じてしまったのです。

先のブログの短いエントリでは舌足らずなので、少しパラフレーズしてみよう。まず「身体と肉体の違い」について。生身の「からだ」という意味での体を「肉体」と呼び、それを含み/それに含まれながらも、もう少し抽象的な「私」の外延と内包の様態を「身体」と仮に呼ぶ。たとえばダンサーは前者によって後者のなんらかを表現する。その「表現」のベクトルや目標はそれぞれではあるが、いずれにしても「身体性」なるものをひたぶるに突き詰めてゆこうとするならば、そこに立ち上がってくる、ひとつの極限値とは、ただそこに(ここに)在る、ここに(そこに)居る、ということである。存在のゼロ度、零度の存在論としての「からだ」。しかしそのとき「身体」は、実は限りなく「肉体」に近づいている。それは戻っている、と言ってもよい。なぜなら「肉体」としての「からだ」は常に既に与えられている、すべての前提であり、あらゆる人間が逃れることのできない、まさに肉の袋としての牢獄であるのだから。

http://dancehardcore.com/archives/000375.shtml
佐々木敦さんのエクス・ポ日記(http://expoexpo.exblog.jp/)経由。


◇ Kakuya Ohashi and Dancers 大橋可也&ダンサーズ
http://dancehardcore.com/


>>>大谷能生talking about 大橋可也&ダンサーズ - レビューハウスラジオ
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080425#p4


>>>大橋可也&ダンサーズ「明晰の鎖」をふり返る - DIRECT CONTACT
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080828#p9