Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

再々録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070408#p7 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080302#p4)

■郵便的応答?
Web写真界隈のインタビュー(http://dc.watch.impress.co.jp/cda/webphoto/2007/04/05/5996.html)に対する
掲示板(2ちゃんねるではない)の書き込みへの、いちおうの回答のようなもの。

■2005年11月の文書(mixi)より
写真は基本的に他のジャンルに比べて
非常に貧しく弱いものだと思っています。
しかし、その貧しさゆえに
かえって逆説的な豊かさを持っていることが、
写真の強みだと思います。

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とくに「無意味」な写真を撮っているわけではありません。
むしろ、すべてのモノに意味があるのではないかと思っています。


意味/無意味、普遍/特殊ということを
あまり意識の前景にもってくると、
そこに位階的な秩序を構築しがちです。
僕は、そうしたものからなるべく遠ざかりたいと思っています。
事物が単一の意味に還元できないということを考えることこそ、
重要なのではないでしょうか。


また、意味という言葉は非常にデリケートな言葉です。
日常において忘れられがちですが、
ある意味は別の意味の集合によって産出・生成されています。
意味を構成する意味すら別の意味によって構成されています。
しかも、それら諸々の意味は、個々人によって異なる差違の体系
(あるいは体系化される前の未然の状態)であるという。


金村修が写真をパラシュートにたとえましたが、
写真に写っている映像だけでなく、その意味=理解も
「どこに落ちるかわからない」ものだと思います。


■テラン・ヴァーグと写真
イグナシ・デ・ソラ・モラレスの著作を実際に読んだわけではないし、
不勉強なだけかもしれませんが、ほかならぬ制作主体自身が、
テラン・ヴァーグ(terrain vague)などという言葉に
依りかかってしまうことには、非常に抵抗感があります。


もちろん依存してしまえば、やすやすと
コンビニエントな成熟(あるいは完成)を
手に入れられるのかもしれません。
しかし、それは単なる放棄であり、
手軽な思考のデッドエンドではないでしょうか。


■再録1(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060329
“私たちが言葉を読むのには程度の差があります。テクストに大きな価
値をみとめない場合、私たちはいくつかの段落を飛ばすことがよくある。
展開がじつに凡庸なので、先がどうなるかわかってしまうことがある。
私たちはページ上で自分の道筋を選択しています。指標から指標へと駆
け抜けていきます。精読しようとするときでさえ、私たちの注意力には
さまざまな揺らぎがあり、そのため、たとえばこれまですでに二十回も
読んだことのあるテクストについて講義を準備しているときに、新しい
ことを発見したりする。しっかり読んであったのに忘れてしまったもの
もある。しかしまた、それまではまったく注意を払わなかったものもあ
るのです。そして、これまで注意していなかったものの重要性を改めて
私たちに示してくれるものこそ、私たち自身の批判的な思考、私たちの
読書、私たちのエクリチュールの進展にほかならないのです。 ”
ミシェル・ビュトール『即興演奏』 第十二章・五二「読解可能性」より
http://www.bk1.co.jp/product/2369425

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060827#p8