Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

南泰裕『トラヴァース』(鹿島出版会)所収

「連続と切断の言語風景──一九九〇年代の都市と建築をめぐって」より

 こうしたふたつの大きな「志向」から、われわれはここで一九九〇年代における都市・建築をめぐる総体の現れを、次のような四つのカテゴリーにおいて読み取ってみることができる。


一、空間/環境……閉じた空間から開かれた環境へ、自律的な建築から場所としての広がりへ、あるいは垂直とシンボルへの欲望から水平とネットワークへ。
二、理論/言説……構築的な理論が創出されるのではなく、既存の理論を参照し、ブリコラージュ的にそれらを組み換えた、無限循環的な言説の産出。
三、技術/媒介……技術そのものの刷新や考案というよりも、これまでの技術や洗練、複合することによる、より媒介的な役割の強化と高度化。
四、文化/現象……ある安定した文化の破壊や保護をめざすのではなく、それらが分裂、転位した様態を「いま・ここ」の個別的な現象として受容する認識と構え。


 これらの総体の現れが、都市と建築をめぐる根本的な変質を示しているとするならば、われわれは都市と建築をめぐる一九九〇年代を、ひとつの変遷の時空間として了解することができるかもしれない。すなわち、空間から環境へ、理論から言説へ、技術から媒介へ、文化から現象へ、という移行と変質を個々に読み取り、その切断層を明らかにすることである。
 しかし、そのようにして「切断」において一九九〇年代を受け止めることは、果たしてどこまで妥当性を持っているだろうか。[略]その「切断」と「連続」は、いわば光を粒子として見るか、波動として見るかの違いに似ており、そのいずれでもありえる、と言うべきだろう。[略]
 [略]先の「切断」による都市と建築の時代了解を、次のように言い換える必要に迫られる。つまり、あるひとつの位相から別の位相への変化を読み取る、ということよりも、むしろその間こそを問題化すべきなのである、と。空間から環境へ、という変化を読み解くのではなく、空間/環境と表記される両義的様態のはざまで、その両位相が地すべりを起こして浮かび上がらせている、名指しえない中間項(ルビ:スラッシュ)こそを照射すべきである、と。[略]

http://www.amazon.co.jp/dp/430607255X
http://www.xknowledge.co.jp/book/detail/30607255
※初出『10+1』No.19(2000/03)


◇ トラヴァース: 紀伊國屋書店BookWeb

都市を把握し、記すことの可能性を求め、動き続けてきた建築家が紡ぐ思考の織物。
単位、距離、速度、モデル、東京、湾岸、住居…臨界点に達した現代都市に絡み合う問題系を精緻な言葉の連なりで解く横断的論考集。

第1章 TRAVERSE―都市へ(トラヴァース)
第2章 Cut off Age―時代の相貌(思想の基準線―世界観の「切断」へ向けて;都市、という認識フレーム:一九六〇〜一九九五 ほか)
第3章 Last Center―東京/湾岸(東京湾岸フィールドノート;境界についてのノート―極限都市における動体と多様体 ほか)
第4章 Edge of Theory―理論の臨界(方法としてのフィールドワーク―観察と記述の系譜学;メビウス・コンプレックス―レム・コールハースという思考の軌跡について ほか)
第5章 Over The City―都市の星章(都市の星章)

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/430607255X.html


◇ 南泰裕/アトリエ・アンプレックス
http://www.atelierimplexe.com/