Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/#p5 http://d.hatena.ne.jp/n-291/#p6)+1

■再録:大西巨人氏に聞く―「文学の可能性」大西巨人/巨人館(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070403#p3
http://www.asahi-net.or.jp/~hh5y-szk/onishi/angelus.htm
『アンゲルス・ノヴス』第33号より

 今聞いた範囲で言うと、ベンヤミンの考えに私は反対ではなくてむしろ賛成です。なんと言ったらいいか、小説家が小説を書くのは文藝の道の本道を進むこと。私はそれと、自分の仕事を批評と思う人が批評の上で批評の道を進むことを同じことだと思ってるんです。批評家はいろんなことをいわれてるけれどもね。わかりやすく言うと、ここにダイヤモンドがあるとしよう。ダイヤモンドを作り出したのは小説家である。しかしダイヤモンドはあるが、ダイヤは石やら埃やら土砂にまみれている。それを洗い落として、これはダイヤモンドだと取り出していく作業そのものが批評の仕事であって、それはダイヤモンドを作る仕事と同じことなんだ。ただしその時に、批評家、相対的につまらん批評家が、自分があのダイヤモンドを、つまりマンの『魔の山』なら『魔の山』が埋もれとったのを洗い流して世の中に出した、と言うのは間違いなんだよ。この洗い流すのが仕事なんであってね。そのダイヤモンドは自分が存在したから世の中に存在するというものじゃない。それは洗われようとどうしようと作り手が作っている。それでも、それを洗い流してここにダイヤモンドがある、という作業をやってのけた批評という仕事は、たいそう立派な仕事だと思う。
 まあたとえば、俺の貧乏は有名じゃったんだけど、君が俺の困っとる時にいくらでもいいが貸してくれたとして、その後に君と私が論争を始めるんだよ。その時に、「何言うか、俺はお前が困っていた時に百万円貸したじゃないか」と言ったらとたんに彼は駄目になる。こっちに言わせればあいつはもう駄目だということになる。そういうことだよ。だけど、百万円貸さなくても立派よ(笑)。
 批評というのはそういうものだから、ベンヤミンが言うとることは正しいと思うね。


■再録:[補遺1]江藤淳小林秀雄」における読解の基礎原理の破壊(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070403#p5
文:鎌田哲哉(『重力01』所収より) http://www.juryoku.org/01annai.html

 江藤淳の思考について「小林秀雄」における転回(転向)を指摘するのが定石になっている。だが、最もラディカルな「作家は行動する」の時点でさえ、江藤は「言葉」についてこの考えと決して無縁ではなかった。具体的に、彼が、文学は「窮して志を述べる」(現実的な行動の断念から生じる)ものだ、と定義する時、確かにそれは文学者の言葉を貫く他者性への尖鋭な意識としてあるのだが、詳細に読むと、そこには同時に言葉によって行動の敗北を補償し自足する、ある自閉的な遁走の表現が不協和に含まれているのがわかる(大西巨人は、この両義性を誰よりも早く的確に指摘した)。
 すべてこれらで江藤が何を希求してきたか。それは、侵入する「言葉の嘘」を「私の言葉」に解消すること、同じことを別なレベルで言えば、「生きること」の途上において失われた何ごとかを言葉の「親密な感触」で埋め合わせることだ。だが、この希求は希求であるがゆえに、言葉の分裂的な性格を見つめる「様々なる意匠」の認識とは永久に相反するほかない。江藤の「言葉」は、小林の「言葉という魔術」への理解に潜む倫理的な核心、すなわち私的な意味と現実に意味してしまう事柄との絶え間ないずれを、さらには「生きること」と「書くこと」との原理的な疎隔を、繰り返し消去する所に可能になるほかない。この回避は、「他者の言葉」の侵入の不可避性(すなわち「私の言葉」の自足の不可能性)をそのものとして現実に承認し、そこからその様々な形態を理論的に問う試みの代わりに、侵入そのものへの処女的で神経的な嫌悪を生成させる。


>>>大西巨人神聖喜劇』漫画化(全6巻)
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060315#p6