Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

古谷利裕さん(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/)のはてなダイアリーより

2009-04-20 - 偽日記@はてな

それでも、視覚が一挙的に空間を掴むという実感があるのは、視線の動きそのものや、それによって得られる視覚的データそのものが、必ずしも意識される(意識に浮上する)わけではないからだと思われる。視線はA→D→B→Cと動いているのだが、そのことは特に意識されず、しかし、そのA→D→B→Cと動いた視線によって得られた視覚的なデータが、頭のなかで蓄積され、構成され、その結果、ある一つの空間「ABCD」といういう関係-イメージが「いきなり」生まれる。

フリードが批判する「演劇性」というのも、このことに関わるのではないか。つまり、美術作品は、あくまで「ABCD」という固定した(閉じられた)フレームのなかで、「A→D→C→B」「B→D→A→C」「B→A→D→C」「C→A→D→B」等々の、複雑なイメージの折り重ねとして成立していなければならず、そのことによって無限のひろがり(恩寵)を得るのであって(それは、百通りの見方を実際にやってみて、百通りのイメージが畳み込まれていると知る、というより、三、四通りの見方をやっているうちに、その背後に無数のイメージのざわめきが厚みとして予感される、という形で認識されるだろう)

最初に「B」が示される時、それは未だ「ABCD」というフレームをもたず、どこへ着地するか分からない、不安で、かつ開かれた予感とともにある、得体が知れないとともに期待に満ちた、そのようなものとしての「B」としてあらわれる。そしてそれが、いきなり「D」へと接続されることのショックが生まれる。その、不安と期待、ショックの感触こそが読み取られるべきものであって、それを事後的に要約(形式化)して、つまりは「ABCD」ということでしょ、と言ってみても、その時にはほとんどの意味が失われてしまっている。

http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20090420
自分の考えていることに引き付けて言えば、目の速さとバッファ、へりとなぞり、視触覚性と摩擦係数、
目のシャドーイング効果、経験と認識、フレームと排除、タブローと非タブロー、、、といったことが真っ先に頭に浮かびます。
また、単なる平面性ではなくイリュージョナルな空間のデプスや、
シングル・チャンネルとマルチ・チャンネルといったことも加えて考えてみると、
いろいろと得られるものがありそうです。

しかし、制作者の立場である私としては、マイケル・フリードの言っていること
(アブソープション〔没入〕、シアトリカリティ〔演劇性〕、オブジェクトフッド〔客体性〕など)を
どこまで真に受けるべきなのかは考えどころだと思っています。