Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

ミシェル・フーコー関連

フーコーの二つのリベラリズム憲法学 - インタラクティヴ読書ノート別館の別館
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090519/p2


フーコー講義録をここまでもってきて読む - インタラクティヴ読書ノート別館の別館
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080718/p2


フーコーとグリーンブラット - Where Sweetness and Light Failed

浅田彰は『構造と力』の中で脱二元論的な社会組織分析にふれ、アルチュセールの例を出した後で、こう言った。「そして言うまでもなく、フーコーの詳細を極めた権力装置分析―その具体的を疑う者はひとりもいない―が、すでにこの方向で巨大な一歩を踏み出しているのである」(123)。浅田の言っていることは半分以上、正しい。フーコーの権力装置分析は詳細を極めたもので、著名なジェレミーベンサムのバノプティコンに対する論を始めとして、具体性を伴いながら考察されたものである。しかし、この分析そのものの具体性を疑うかどうかは別として、彼の権力装置分析は80・90年代にサイードスピヴァクという2人の有力な論者から鋭い批判を受けることとなった。ミシェル・フーコーは60年代以降、現代思想の中で最も重要な哲学者として扱われてきたけれども、現在、どのように読まれているのだろうか。そう思い、少しだけ調べてみた。
http://cruel.org/other/foucault.html
英仏文学者や社会学者が好むミシェル・フーコーの研究が、実は欧米アカデミズムの世界では疑問視されている、という話は聞いたことがある。(私にはよくわからないが)社会学的な面白さがあったとしても、肝心な歴史研究に厳密さが欠けているらしい。彼の「考古学」「系譜学」を具体的に批判したサイトを読んでなるほどなあと思った。フーコーの「ヴィクトリア朝の禁欲的な道徳が逆説的に性への言説を増殖させた」とか「人間というのは近代になってつくられた存在であり、数百年後には消え去るかもしれない」などという刺激的な仮説を、私は20歳くらいの頃に初めて知り感動を覚えたものだけれども、確かにそれは厳密な「歴史」であるとしたらあまりにも魅力的・文学的ものだった。この状況において、シニカルな笑いを好む英米系の学者であれば、きっとこうでも書くのだろう。ミシェル・フーコーという哲学者の影響は「やがて波打ち際の砂の表情のように消滅するだろう」。
私はこのようなアカデミズムの世界でのフーコー批判は妥当なものだと思うし、それと同時にフーコーがこれからも一つの研究方法の到達点として読み継がれるべき存在なのだろうとも思う。しかし私が最も気になるのはフーコーが価値ある存在かどうかということなどではなく、この伝統的な歴史学者と先鋭的な哲学者の対立の構図である。

http://d.hatena.ne.jp/ryoto/20061111#p1
http://blog.goo.ne.jp/origenes/e/1e877715e0b6bc643a3e61bc8cc18ab8(憂鬱と官能を学ぶ日記)


◇ [最新号]談 no.75 WEB版 特集:バイオ・パワー ・・・利用される生きる「力」 - 談 Speak, Talk, and Think
http://www.dan21.com/backnumber/no75/index.html


◇ 『フーコーの後で―統治性・セキュリティ・闘争』の「序」 - 慶應義塾大学出版会|立ち読み
http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/humanity/foucault/browse1.html


立岩真也「書評:小畑清剛『近代日本とマイノリティの<生−政治学>――シュミット・フーコーアガンベンを中心に読む』」
http://www.arsvi.com/ts2000/2007063.htm


ミシェル・フーコー講義集成 8 生政治の誕生 / ミシェル・フーコー 著, 慎改 康之 著 - 筑摩書房
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480790484/