Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

大嶋浩さんのブログより

◇ コーカス・レース - Art&Photo/Critic&Clinic

after-d.orgのブログで小林氏が引用している杉本博司の発言を読んで、正直、驚愕した。


「デジタル時代になって写真は世界の存在証明能力を喪失してしまった。デジタル写真によって世界は手を入れられる材料に堕してしまったのだ。写された世界は操作され、処理され、そしてファンタジーへと変換されるのだ。そうした意味ではデジタル写真は絵画への逆行であるともいえる。画家は写真という強敵が現われるまで、のほほんと世界を恣意的に描いてきた。写真の発明は多くの絵描きを失職させた。絵描きがリアリティーの描写において、写真に勝ち目がないということを悟ったおかげで、近代絵画というものが発明されたといっても良い。それは印象派キュビズムシュールレアリスム、ひいては現代美術へと発展したのだ。
今度のデジタル革命とやらはどこへ向かうのだろう?食品の虚偽表示にはあれほどめくじらを立てる社会が、どうして世界の虚偽表示である写真のデジタル化を喜ぶのか、私にはその気心が知れない。」
その全文は、ここ、http://plaza.bunka.go.jp/museum/beyond/vol8/


おいおい、蝋人形館や博物館のフェイクを本物のように撮った、あのアイロニーは何処にいったのか。あんたは本当に、写真というイメージの「実在性」を信じていたのか。写真は事物がイメージに転換されるところに重要性があるのであって、実在性を語ってはならないのだ。ロラン・バルトが語った「それはかつてあった」という写真の実在性は、「世界の存在証明能力」といった素朴なものではない。杉本博司のあまりにも、写真への認識の浅さに正直、驚くばかりである。オリジナルとコピー、本物と偽物、実在とイメージ、杉本は相変わらず表象作用の前提となる二進法的ヒエラルキーにとらわれている。


40年以上も前に、中平卓馬は以下のように書いている。杉本博司の発言と、中平卓馬が言う「事実信仰思想」とどこが違うのか。そもそも杉本博司は「実在性」と「物の状態」を混同している。あきれるばかりである。


「「写真」という言葉には自然主義リアリズムを前提とするひとつの物の見方がぬぐいようもなく付着している。「〈真〉なるものがどこか外部に客観的に存在し、カメラというこれまた客観的な機械がそれをそっくり切り取ってくる」。カメラの発明とその利用のされ方の歴史がいわば写真に不可避的におしつけたものであるそれは、事実を重視するという意味でドキュメンタリズムへの豊富な可能性をもちながらも、一方で、事実のもつドラマ性とカメラとの間の緊張関係に生まれるカメラマンのドラマツルギーとそこからひき出される「表現」の問題をいっさい斥ける事実信仰思想ともいうべきものを生み出している」(『見続ける涯に火が……』所収・「映像は論理である」1965年「日本読書新聞」より)

http://blog.goo.ne.jp/zalzal04/e/042962e7bb38a0b38ea1b935bf5ed2dc


◇ コーカス・レース - Art&Photo/Critic&Clinic

しつこいようだが再び、かの愚か者(笑)−杉本博司を批判する。下記の杉本の発言の誤解はどこにあるのか。セッティングされた現実を撮ろうが、演出された現実を撮ろうが、写真というイメージの登場後は、絵画的イメージ(イデア的イメージ)が終焉したのだ(それを作品化したのが杉本本人ではなかったか?)。したがって、現在の絵画あるいは杉本が言うように近代絵画以降の絵画(すべてはありませんもちろん、イデアに基づいた絵画は現在もつねに存在するのだから)は、もはやいわゆる絵画的イメージ−イデア的イメージではないのだ(われわれはイデア=絵画的イメージ以後から出発しなければならないし、近・現代絵画−美術もまたそこから考えなければならない)。その相異が理解できないから相変わらず、演出された(つくられた)写真は絵画的なものと判断してしまうのだ(相変わらずの、無反省な絵画と写真の二項対立)。かつてこのことを理解し、自覚し、問題にしていた唯一の写真家は中平卓馬であった。デジタル写真は絵画への逆行であるどころか、「実在なきイメージ」「イメージなき実在」という対立を超えた思考を可能にするのだ(杉本の発言を好意的にとれば、もちろんデジタル写真は絵画的−イデア的なものへと逆行する危険性を孕んではいる。しかしそれは一面でしかない。その一面を回収してはならない)。「したがって電子的イメージは別の芸術意志、あるいは時間イメージのまだ知られざる側面において、基礎づけられるべきだろう。芸術家はいつも同時に、こういわねばならない状況におかれている。私は、新しい手段を要求する。そして私は新しい手段が、あらゆる芸術意志を消滅させ、あるいはそれを商業に、ポルノグラフィーに、ヒトラー主義に変えてしまうことを恐れる……」(『シネマ2』宇野邦一他訳)。ドゥルーズは同じ著で、世界への信仰を語っている。世界を信じること、それは世界の、宇宙の持続としての変化を信じることではないか。「芸術の目的=終焉を芸術の止揚となし、その結果芸術の完成であり芸術の哲学的達成であるとする思考−それは、芸術を芸術としては破棄し、哲学として芸術を是認するものであり、哲学を言説としては破棄し、芸術としては保存する」「一つの表象あるいは表現として構想された芸術は、実は終わってしまった芸術であり死んだ芸術である。(略)芸術が本当のところは、もうすでに(再)呈示=表象の境位にとどまってはいないからである。(略)ヘーゲルはそのことを知らなかった」(ジャン=リュック・ナンシー『崇高な捧げもの』梅木達郎訳を参照)。杉本博司のいまだ変わらぬヘーゲル的思考(笑)。


「デジタル時代になって写真は世界の存在証明能力を喪失してしまった。デジタ ル写真によって世界は手を入れられる材料に堕してしまったのだ。写された世界 は操作され、処理され、そしてファンタジーへと変換されるのだ。そうした意味 ではデジタル写真は絵画への逆行であるともいえる。画家は写真という強敵が現 われるまで、のほほんと世界を恣意的に描いてきた。写真の発明は多くの絵描き を失職させた。絵描きがリアリティーの描写において、写真に勝ち目がないとい うことを悟ったおかげで、近代絵画というものが発明されたといっても良い。そ れは印象派キュビズムシュールレアリスム、ひいては現代美術へと発展した のだ」 (杉本博司の発言)

http://blog.goo.ne.jp/zalzal04/e/60101e235ed68d7c51af3b1e35eec33e
この大嶋浩さんの批判についても考えてみたいと思いながらも、もう8月も半ば。
ずいぶん前に杉本博司さんの著作を買ったものの、未だ積読状態。
日々、積み残しが増えるばかりという状況。。。

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◇ SPECIAL INTERVIEW No.005 杉本博司氏 インタビュー - LOAPS
http://www.loaps.com/looker+index.id+68.htm
http://www.loaps.com/looker+index.id+69.htm