Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

サイ・トゥオンブリ=「現代のストリートアートのすべてをやりつくしたアーティスト」@コマーシャル・フォト2009年11月号

立ち読み。
フォトグラファー・Lake Tajo(レイクタホ)こと、スタイリスト兼カメラマンの熊谷隆志氏が、
写真を撮るうえでの構図の参考になる本として
サイ・トゥオンブリ(Cy Twombly)の『Cy Twombly: Photographs 1951-2007』を挙げていましたが、
キャプションには「現代のストリートアートのすべてをやりつくしたアーティスト」とのコメントが付いてます。
まったくの謎です。
トゥオンブリの名前でも出しておけば、ちょっと気が利いているし、
箔が付くとでも思ったのかもしれませんが、
残念ながら当人の意図に反して、メッキが剥がれまくりです。大丈夫なんでしょうか?
それに、『Cy Twombly: Photographs 1951-2007』には、
ファッション写真の参考になるようなものはあまり掲載されていないと思います。
ひょっとすると、『Cy Twombly: Photographs』の間違いではないでしょうか?
せめて、クリストファー・ウール(Christopher Wool)の『East Broadway Breakdown』とでも言っておけば、
まだ傷は浅かったんでしょうけども。。。(ファッション写真に応用できるようなものではありませんが)


>>>「そして思う。都築響一は日本人の生態を撮るヴェッヒャーなのだと。坂川栄治/AD、装丁家、文章家、写真家。」@コマーシャル・フォト2009年2月号
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090130#p10


>>>「ヒヨルグ・サッセ。ドイツ人の写真家らしい。」@コマーシャル・フォト2009年7月号
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090627#p5


>>>またまたやらかしています。@コマーシャル・フォト2009年8月号
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090801#p14

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◇ 『ロラン・バルト美術論集―アルチンボルドからポップ・アートまで』(訳:沢崎浩平 みすず書房

「意味形成性の場としての眼差しは共感覚をもたらす。つまり、(心理的)諸感覚の区別を曖昧にする……したがって、すべての感覚が〈見る〉ことができ、逆に、眼差しは、匂いを嗅ぐ、音を聞く、物に触れる等々のことができる。ゲーテ、《手は見ようと欲し、眼は愛撫しようとする》」(バルト)

本書は、バルトによって書かれた《美術論》の初めての集成である。『第三の意味』所収の写真・映画・演劇・音楽論と『明るい部屋』に本書を併せると、バルトの主要な芸術論がすべて邦訳されたことになり、つねに現代批評の先端を走ってきた彼の軌跡をたどることができる。また、これらのエッセー群は1969年から80年にかけて執筆されたが、これはバルトの思想展開において、彼の関心が記号学からテクスト、快楽、身体へと移行していった、きわめて重要な時期にあたっている

バルトは書く人であると同時に、みずから演奏する人=描く人でもあった。この経験は本書において、とりわけサイ・トゥオンブリやレキショを語る場合の、生き生きとした自在な眼差しに、またエルテやアルチンボルドを考察する場合には、刺戟的な分析となって遺憾なく発揮されている。

http://www.msz.co.jp/book/detail/00491.html

文字の精神
エルテまたは文字通りに
アルチンボルドまたは「修辞家」と「魔術師」
絵画は言語活動か
アンドレ・マソンのセミオグラフィ
サイ・トゥオンブリまたは量ヨリ質
芸術の知恵
ヴィルヘルム・フォン・グレーデン
この古きもの、芸術…
レキショとその身体
目の中をじっと

https://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-ISBN=4622004917
http://www.amazon.co.jp/dp/4622004917


◇ 絵画は二度死ぬ、あるいは死なない サイ・トゥオンブリ - ART TRACE
http://www.arttrace.org/books/details/live_twice/twombly.html
http://www.arttrace.org/books/books.html