Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

Slavoj Zizek 'WELCOME TO THE DESERT OF THE REAL' (VERSO, 2002)

◇ 2008-06-04 - madhutlog

アガンベンのこの概念は著者によれば、基本的人権と市民権の狭間の存在、生物的には人間としてありながら社会的には抹殺されている存在、ということになろう。ハナ・アーレントの『パーリアとしてのユダヤ人』が思い出される。また言葉からすれば“sacer”は“sacred(聖者)”とも通じている。本書において登場するホモ・サケルは、グアンタナモにおけるタリバンアルカイダの捕虜、アフガニスタンの住民、ベルリンで差別されるベトナム移民、アウシュビッツの被収容者、パレスチナの住民などである。たとえば「テロとの戦い(war on terrorism)」は「普通の戦争ではない」(ブッシュ)ゆえ、グアンタナモの収容者は通常のPOW(prisoners of war)のようには扱われない。残酷なリンチが行われるかと思えば「人道的」配慮から食料が配られる。あるいはアフガニスタン上空を飛ぶ米軍機から落とされるものが爆弾であるのか食料であるのかは、そのときどきのアメリカの判断次第となる。近代的な戦争は主権国家の紛争解決の一手段としてあったが、「テロとの戦い」はそうした近代戦争から最初から逸脱するわけである。この同じ点から左翼による常套句「戦争反対」や「人殺しはやめろ」も批判される。「これは普通の戦争ではない。一般アフガン人は殺さない」として一月行動を控えたブッシュの方が一枚上手であり、さらに「ホモ・サケル」として扱うことは「人殺し」より悪質である場合もあり得るからである。たとえばベルリン街頭におけるベトナム人に対する嫌がらせ(harassment)はネオナチによる暴力よりも悪質であると著者は見る。ネオナチの暴力は明示的であり、それゆえ異常であることが容易に看取される一方、嫌がらせの方は暗示的であり、それゆえそういうものとして日常化し、そういうものとして内面化していくからである。

カルチュラル・スタディーズポストコロニアル理論や大学左翼(academic Left)に対しても、著者の見解は手厳しい。1968年のモットー“Soyons realistes, demandons l'impossible!”を皮肉りながら「さあ現実的になろう。われわれは大学左翼だ。批判的に見えるようありたい。それでいてシステムが与える特権を享受したい。できない要求をシステムに投げつけよう。われわれは皆、この要求が決して実現しないだろうことを知っている。実際には何も変わらないだろうことを確信しているからこそ、われわれはこの特権を維持できるのだ」(61頁)。大学左翼は逆説的にも、そして当然にも保守主義の亜流というということになろう。この章の末尾は2002年に起きたオランダの政治家ピム・フォルタイン暗殺の逸話で終わっている。フォルタインは政治的には右翼大衆主義者であったが、政策的にはまったくリベラルで、個人的には多くの移民と親交があり、冗談を解し、またゲイであったという。この不思議な存在は右翼大衆主義とリベラルな寛容という対立軸が偽のものであり、同じコインの表裏として示す生き証人だったゆえに抹殺されたのだとされる。

本書結語の末尾近くでは1940年のフランスの状況が瞥見されている。1940年のフランスの状況、つまりパリ陥落後の状況はこれまでもさまざまなところで何度となく論じられてきた。ここではラカンの概念が引用され、シャルル・ドゴールの行動が大文字の行為(Act)の例と見做される。大文字の行為は、精神分析でいうアクティングアウト(acting out)とは、もちろん異なるものだろう。アクティングアウトがいわば閉じられた領域から別の閉じられた領域への移行なのだとすれば、大文字の行為は外部を希求するものだからである。それが外部へと向かうものである以上、結果は保証されない、つまり賭けである。

「愛の匂い(SMELL OF LOVE)」と題されたこの結語において、9.11後にニューヨークのダウンタウンに充満した匂いについて、著者はまた語る。「冒涜的に見えるかもしれないが」と前置きしながら、ギリシア悲劇におけるアンティゴネの行為と通じるものがあるのではないかというWTC突入後、マンハッタン20丁目まで残ったその焼ける匂いについて、スラヴォイ・ジジェクはこう述べている。

「それでニューヨーカーたち自身はどうなのだろう? 9.11から数ヶ月たってもマンハッタン・ダウンタウンでは20丁目まで、WTCタワーの焼けた匂いを嗅ぐことができた。やがて皆この匂いに愛着を覚えるようになり、ラカンならニューヨークの「シントーム(sinthome)」と呼ぶだろうものとしてこれは機能し始めた。都市へのリビドーの愛着が凝縮された符牒のことである。それゆえこの匂いが消えたとき、みな懐かしく思うことだろう」(145頁)

http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20080604
松畑強さん(http://www.madhut.jp/)のはてなダイアリーより。


2009-11-13 - madhutlog
http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20091113


スラヴォイ・ジジェク『「テロル」と戦争―“現実界”の砂漠へようこそ』(訳:長原豊 青土社

グローバル資本主義からの挑発
9・11以降、未曽有のイデオロギー的・抑圧的な国家装置総動員の下、声高に叫ばれる 「テロリズムとの戦争」 。アメリカ帝国主義ヘゲモニーに、全世界は加担を強いられるがままなのか。右翼ポピュリズムの欺瞞・リベラル民主主義の迷妄を共に撃ち、急迫する真なる 〈敵〉 とは誰かを見極める。


【目次】

序論 消えるインク

1 〈現実界〉 の情熱、見せ掛けの情熱

2 横取りの繰り返し、ムラー・オマールの教訓

3 九月一一日後の幸せ

4 〈下司野郎(ホモ・サカー)〉 から 〈聖なる人間(ホモ・サケル)〉 へ

5 〈聖なる人間〉 から隣人へ

結論 愛の匂い


映画一覧
訳者あとがき

http://www.seidosha.co.jp/index.php?%A1%D6%A5%C6%A5%ED%A5%EB%A1%D7%A4%C8%C0%EF%C1%E8
http://www.amazon.co.jp/dp/4791760239
http://www.bk1.jp/product/02301197


>>>another field

◇ Re:place

... even if a thing has one image when viewed from the front, numerous conditions in multilayered relationships can be seen if it is glanced at from a slight angle, and different things can be made from these same conditions by rearranging the relationships ... (Slavoj Zizek)


正面から見るとひとつのイメージであっても、ちょっと斜めから覗けばいくつもの条件が重層する関係性が見え、その関係性を組み替えることで同じ条件から違うイメージをつくりだすことができる。(スラヴォイ・ジジェク

http://www.rachiakira.com/replace/index.html

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090503#p3
良知暁さんのウェブサイトより。


>>>岡崎玲子 meets ジジェク - heuristic ways

 もっとも、ジジェク氏が言いたいのは、自然の暴力でも、
個人による主体的暴力でもない、責任関係がはっきりしない
「客体的、体系的暴力」に対してどう責任をとるか、という
観点・要求を打ち出すことである。
 「例えば、ある経済政策によって数百万もの人の生活が破
壊されたのに、「私は何もしていない」と言えます。原因は
経済政策であった、つまり制度のせいだと。問題は、この種
の暴力についても我々に責任はあるのかということです。」

http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20061121

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20061126#p10