Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

リュック・フェラーリと大友良英さんのデュオ

YouTube - Luc Ferrari & Otomo Yoshihide perform "Archives Sauvées des Eaux"

Translation of L.F.'s comments at the end:

What interests me is considering sound in a new way, and a new way of creating it which resembles what we did 50 years ago, as in musique concrete or electronic music. Finally, men like Otomo Yoshihide... when I heard him the first time, I knew he was someone who could understand musique concrete. He was making music that was concrete, but indirect -- what we were doing in the studios 50 years ago.

http://www.youtube.com/watch?v=Yhcgm3rdaUY
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◇ Les archives sauvées des eaux/Luc Ferrari avec Otomo Yoshihide - Disc Callithump

2005年に逝去したフランスの作曲家、リュック・フェラーリの"2人のDJのための作品"を、2003年の来日時に西麻布SuperDeluxeで作曲者自身と大友良英の共演で日本初演した際のライヴ音源のCD化。フェラーリと大友の最初で最後の共演、美しい交歓の記録。初回プレス分のみボーナストラックとして、スタジオ・マラパルテ製作の約10分の同ライヴの映像作品『slow landing』をCD-Extraで収録。

http://disc-callithump.galabox.net/index.php?main_page=product_info&products_id=1


◇ review::Les archives sauvées des eaux/Luc Ferrari avec Otomo Yoshihide - DiscCallithump
http://disc-callithump.galabox.net/review/CPCD-001.html
北里義之さんによるレビュー。


◇ LUC FERRARI avec OTOMO YOSHIHIDE / リュック・フェラーリ/大友良英 / LES ARCHIVES SAUVEES DES EAUX - diskunion

ミュージック・コンクレートという分野を築きあげた偉大なる作曲家リュック・フェラーリが、2003年に大友良英とともに自身の作品 『ARCHIVES SAUVEES DES EAUX (水から救出されたアーカイヴ)』 を演奏したものを収録したライヴ・アルバム。

本作のライナーノーツで 「レコードプレイヤーそのものから発生する 音という自分自身の興味の焦点がぼやけることなく、実に数年ぶりにレコードを妥協することなく気持ちよく演奏できたのだ」 と大友自身が語る通り、ミニマ ルな具体音、電子音、ノイズ、そして静寂が溶け合ったデリケートなアンサンブルは、ミュージック・コンクレートとオフサイト以降の "音響的即興" の邂逅と でも言うべきサウンドとなっており、フェラーリの貴重な晩年の演奏録音といった観点からのみならず、貴重な音楽的ドキュメントともなっています。

なおCD -EXTRA仕様となっており、当日のライヴ映像も10分ほど収録されています。

リュック・フェラーリ (CD-J with CDs of his own composition)、大友良英 (turntables,records and prepared cartridges)

http://diskunion.net/rock/ct/detail/JZ090131-14

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>>>LUC FERRARI
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080831#p2

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>>>クリスチャン・マークレイ&大友良英『Christian Marclay & Otomo Yoshihide: Moving Parts』
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090806#p5


>>>モア・アンコールズ ──私的クリスチャン・マークレイ史 1984〜1997── 大友良英
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070427#p3

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>>>“「選択」と「認識」がなければ、

「音」は「音楽」にはならない。ところで、「選択」すなわち「認識」であるケースもありえる。他ならぬ<4分33秒>がそれだ。そこには時間と空間の限定という「選択」があり、それがそのまま「認識」の引き金にもなっている。フェラーリとケージは、実はほとんど同じことを言っている。違いがあるとすれば、ケージが「音楽」を「音響」へと解放してしまおうとするのに対して、フェラーリは「音響」を「音楽」に取り戻そうとしている、ということだろうか。いや、よくよく考えていると、両者の主張はぐるぐる廻っているだけのようにも思える。”

佐々木敦『テクノイズ・マテリアリズム』(青土社)より

http://www.amazon.co.jp/dp/4791759303

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060925#p6


>>>小田寛一郎さんの「2007-07-30」より

「選択」と「認識」がなければ、「音」は「音楽」にはならないということよりも
ここでいうケージとフェラーリの堂々巡りの方が重要だと思う。
この堂々巡りについて考えることは直接音楽について考えることに繋がるのかもしれない。
この堂々巡りについて考えることは
「ご自由にお持ちください(便宜的にそう呼ぶ)」に知らず知らず含まれていたことでもある。
音楽がどうやって始まるのかにこだわりすぎているような気もする。
「音」と「音楽」にとっての「選択」と「認識」という構図に
なにかあたらしい視点を持ち込まないとそのうち
この堂々巡りの意義も少しづつ失われていってしまうかもしれない。

http://d.hatena.ne.jp/k11/20070730

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070731#p4